掌から零れ落ちたものは……

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 永嶺家の執事だと名乗った男は、ふたりの生活が単なる同居ではないと知っていて、永嶺家の嫡男の伴侶がどこの馬の骨ともわからない男では困ると告げた。尊人には、(しか)るべき名家の女性を(めと)って、跡継ぎを(もう)けてもらわなければいけないという。男と付き合っているなど前代未聞の永嶺家の恥だと言われてしまえば、詠史に返せる言葉はなにも無かった。  尊人に知られぬように姿を消して欲しいと請われ、差し出された手切れ金の小切手を目の前で破り捨てる。幸せな日々を金で(けが)して欲しくはなかった。  執事の帰ったあと、小さなボストンバックに荷物を詰めながら堪えきれない涙が零れ落ちるのにまかせて一頻(ひとしき)り泣いてから、顔を洗い涙の痕跡(こんせき)を消し去った。  見合いの話だったと憤慨(ふんがい)して帰ってきた尊人に、自分の住むべき世界に帰れと指環を突き返し、私物を纏めたバックをひとつ手にしてマンションを飛び出した。その足で大学に退学届けを出して駅に向かうと、一番高い切符を買って普通列車に飛び乗り辿りついたのがこの町だった。行き先はどこでもいい。ただ、尊人から遠く離れることしか考えていなかった。近くに居ればみっともなく追いすがってしまいそうだったから――。  尊人のことは忘れて、新しい相手を探そうと考えたこともある。同じ嗜好の者が集まる場所に顔を出してみたことも。  それでも、いざとなると尊人の顔がちらついてダメだった。     
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