掌から零れ落ちたものは……

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 しんみりとした空気を振り払うような詠史の明るい声に、涙ぐんでいた周囲からも笑いが零れ落ちた。 「じゃあ、そろそろ行くね。みなさん、本当にお世話になりました。絶対にまた会いに来るからね。風邪なんかひかないで元気でいてよ」  笑顔でひらりと手を振ると背を向けて歩き出した詠史の背中には、姿が見えなくなるまで見送ってくれている視線が、いつまでも優しく絡みついていた。  住宅街を抜けた先に見えてきた小さな駅舎の前には、微笑みを浮かべた尊人の姿がある。  暖かそうなロングコートを纏った姿を見とめた瞬間、10年を振り返るようにゆっくりとしていた詠史の歩みが速度を上げた。小走りに駆け寄る。 「ごめん。待たせちゃったよね」  微かに息を乱す詠史の手から、さり気なくボストンバックを奪った手が背中を引き寄せた。 「待っているのも楽しかったぞ。必ず来るのがわかってるからな」  軽く抱き締めて離れていく手を惜しいと思いつつ、(きびす)を返した尊人に並んで駅舎に入る。  切符を買って、肩を並べてホームへと向かう。  ここに来たときは哀しみが心を押しつぶしそうなくらいに重くのしかかっていた。  ここを去ろうとする今、詠史の心には一抹(いちまつ)の淋しさと、取り戻したこれからの生活への期待が(せめぎ)ぎあっている。     
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