掌から零れ落ちたものは……

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 地域の名が入った白いテントの下、水色の安っぽいプラスチック製の水槽の前に置かれたパイプ椅子に腰かけた皆藤詠史(かいとうえいじ)もまた、手伝いを頼まれたうちのひとりだった。華奢(きゃしゃ)(からだ)に祭りのスタッフだとわかるように濃紺の法被(はっぴ)を纏い、水の張られた水槽の中を、色鮮やかな小さな金魚がゆらゆらと短い尾鰭を揺らしながら子供たちが突っ込むポイから群れを成して逃げる姿をぼんやりと眺めている。  ぽかぽかとした小春日和の陽気に温まった柔らかな風が、顔半分を覆い隠すくらいに伸びた柔らかそうな栗色の前髪を掻き上げるように吹くたびに、大きな瞳が印象的な中性的な(かお)が露になった。  頓着せずに心地よい風に髪を嬲られるままに水面を眺めていると、上手く金魚を掬えずに穴の開いたポイに悔しそうな声を上げる子供の高い声が聴こえてくる。無造作におたまで掬った金魚を1匹入れたビニールの袋を渡しながら、 「残念だったね。はい、大事に育てるんだよ」 「ありがとう!」  微笑む詠史に元気よく返事をして去っていく子供の後姿を見送って、再び水槽の金魚に視線を落としたときだった。 「――詠史(えいじ)?」  ふいに聴こえた懐かしい声に名を呼ばれた瞬間、それまで耳に入っていたはずの祭りの喧騒が消える。  忘れようとして忘れられなかった低くて甘い声。地元を離れてからは、耳にすることなどもうあり得ないと思っていたそれ――。 「詠史だろ? 無視するなよ」  とうとう幻聴まで聴こえるようになったのかと、視線を上げることもせずに目の前の水槽を泳ぐ鮮やかな金魚の群れを眺める詠史を呼ぶ声が再び耳に届いた。
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