692人が本棚に入れています
本棚に追加
記憶のなかにある運転席は、常に靄がかかっていた。父と母の背中が交互に乗り替わっていた。その儚いイメージは、明確な伯母の背中によって蹴散らされる。そして、他三人がどこに座っていたかも鮮明に浮かび上がった。頻繁にこちらを振り返り喋りかけてくる助手席の母の顔と、有の隣の席で鼾をかいて寝入っている父の顔が。
「穂村? 聞いてるか?」
気遣うような藤崎の声が耳に流れてくる。有は慌てて意識をスマホに集中させる。
「大丈夫です。ちょっと事故のことを思い出して」
「そうか、思い出したか。もっとその話聞きたいんだけど、そろそろ仕事に戻らないといけないんだ。また明日話そうぜ。とりあえず今日はゆっくり休めよ」
残念そうに言いながら、藤崎が電話を切った。と同時に、亘からのLINE着信の知らせが目に入った。
『ごめん、いま電車が人身事故で遅延してる。十二時までに間に合わないから、有は会社に行って。俺は外で時間潰すから』
急いで返信を打とうとしたが、なかなかうまく打てなかった。指が震えていた。心臓の鼓動が速い。
有は深呼吸をして、もう一度文字を打った。
『俺も一日休むことにしたから大丈夫だよ。急がずに帰ってきて』
返信を終えて、有は目を瞑った。
なぜ新聞を調べなかったのか自問してみると、あっさり答えが返ってきた。
事故後数週間が経ち、有のなかで気持ちの整理が一応ついた頃に、両親の死亡事故が新聞には載らなかったのか、伯母に聞いたのだ。
最初のコメントを投稿しよう!