692人が本棚に入れています
本棚に追加
ふたりはシャワーを浴びたあと、寝室のベッドの上に並んで座った。
「俺が記憶を無くした理由、言うよ」
有から口火を切った。タオルで髪を拭いていた亘が手を止め、有の顔をジッと見た。
「幸せすぎて怖いって言ったのは俺の母親なんだ」
有は手短に、両親の死亡事故の説明をした。
「事故自体ははっきり覚えてなかったのに、その言葉だけは心の底に埋まってたんだと思う」
過度な幸福が怖かった。そこそこの幸せのほうが安心できた。有は大金を持っていても、人生の節目――大学に受かるとか、就職先が決まるといったことにも、そこまで喜びを感じてこなかった。真紀と付き合っているときも、楽しいことや嬉しいことはあったが、幸福感で満たされたことはなかった。幸せで恐怖を覚えることなんか今まで一度もなかったのだ。亘を好きになるまでは。
「亘とセックスしたあと、すごく怖くなったんだ。これ以上幸せなことはない。あとはもう失うだけだって」
失うぐらいなら、亘に片思いをしていたころに戻りたいと強く思った。幸せになりすぎると、母親のようになる――そんな強迫観念があったのは確かだ。
最初のコメントを投稿しよう!