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母方の祖母は、今年で八十歳になった。足腰が不自由になり、介護が必要な状態になっているそうだ。たまに伯母から愚痴の電話がかかってくる。彼女には頭が上がらない。有の両親が突然事故死したあと力になってくれたのは彼女だけだった。両親が購入したばかりの、入居予定だったこのマンションに住めるように手続きをしてくれたのも、家事一般を教えてくれたのも伯母だった。
「有?」
亘に名前を呼ばれ、有ははっとして顔を上げた。いつの間にか有は動きを止めていた。
「ああ、ごめん。次はドレッシングを作ってくれる?」
オリーブオイルとハーブソルトを亘に手渡し、有は肉じゃが用の豚肉を鍋に放り込んだ。ターナーで炒めて肉の色が変わったあと、切った野菜も入れてまた炒め、だし汁を流し込んで落し蓋をした。
「とりあえず一段落だな」
隣で有の動きを眺めていた亘が、そっと体を寄せてくる。鼻と鼻が触れ合ったあと、すぐに軽いキスが始まった。
亘はキスが好きだ。こういうちょっとした空き時間に、すぐキスを仕掛けてくるのだ。
ぐつぐつ煮立ってきた肉じゃがの音と、それに被さる換気扇の音を聞きながら、有は亘とのキスの応酬を楽しんだ。が、恋人の舌が唇を割って入って来た瞬間、反射的に顔を左右に振っていた。
「やだ。そのキスは嫌だ」
鋭い声が出て、自分でもびっくりした。
離れていく亘の顔が、傷ついたみたいに強張っている。
失敗した。もっとやんわりと、断ればよかったのに。
「あとは俺ひとりでできるから」
優しい言葉のひとつも頭に浮かんでこなかった。
――俺だって、朝おまえに拒まれて傷ついたんだ。
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