007.砕かれた聖杯(1)

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 夕暮れ前の乳白色の空から、細い雨が落ちていた。  飲食店裏のプラスチックケースが積まれた、狭い通路を縫うように、黒いスーツ姿の若者が走っていく。  恐怖を貼り付けた鳶色の瞳。切れたこめかみから、汗に混じって朱色の流れが細く滴る。  幼さの残る丸顔は、不自然に歪んでいる。色白の肌に、真新しいアザが幾つも咲いていた。唇の切れた口元、左目の端、右の頬。  流行りのアシンメトリーの茶髪も、雨と泥と血糊でベッタリと頭皮に張り付いている。  走る度に胸か脇か背か――パーツは分からないが、熱を持った身体の芯が鈍く軋む。肋骨にヒビが入ったか、折れているみたいだ。  (なまぐさ)い息が上がる。水溜まりに成りきらないジメジメとしたぬかるみに足を取られるが、それでも止まれない。逃げなければ。奥へ、奥へ。体勢を崩しかけて、ヨロリとつんのめる――が、必死に身を起こし、足を動かす。  しかし、暗い通路の最深部、目の前にそびえ立つ、(まだら)に禿げたグレーの壁に突き当たると、彼はガクリと崩れた。  程なく、背後から四つの大きな影が追い付き、彼を取り囲んだ。  不規則な悲鳴に入り交じるように、硬い物が砕かれる耳障りな音が繰り返された。 「……やめろ……助けてくれぇ……っ!」  掠れた懇願は、断末魔の呻きに変わり、それも直ぐに消えた。  彼らを見下ろす無機質なコンクリートのビル壁が、全ての異音を飲み込んでいく。  黒スーツの男が動かないことを見届けてから、四つの影は袋小路を立ち去った。  幾重にも折り畳まれたベールのような霧雨が、ポツリと残された黒い塊を包んでいく。  それは微動だにせず、ゆっくりと体温を失いながら、暮れ行く帳の中に沈んでいった。 -*-*-*- 「フラワーの新店舗ですか」  19階のボスのオフィス。定期報告を終えた俺は、皮張りの応接ソファーに引き止められた。  ボスの有能な美人秘書、キャサリンから企画書を渡される。 「せや。前々から要望はあってな、検討しとったんや」
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