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「その人はね、大塚春明っていう人だったんだ」
「え……?」
千紗の動きが止まる。
「見つけた時はもう意識がなくて、結構焦ったんだよ」
僕が話を続けたのに、千紗はそのまま何も返してこなかった。
「……千紗?」
僕は嫌らしく、呼び掛ける。
「……え?」
千紗は明らかに動揺していた。
「……もしかして、知り合い?」
問いかけながら、ぼくは千紗をじっと伺う。
千紗はすぐに表情を引き締めると、僕の目を見て、「ううん」と大きく首を横に振った。
「それで、その人はどうなったの?」
動揺を上手に隠すように、あまり気のない素振りを見せるよう、洗いあがった食器を布巾で拭き始める。
僕の心は変にざらりとしていた。
千紗は僕に嘘をついた。
「病院に運ばれたよ。どうなったかは分からないけど、結構、重症だったみたい」
僕も千紗に嘘をついた。
医師の話では大塚は一命を取り留めたはずだ。
まだ目覚めていないけれど、きっと快方に向かうだろう。
だが重症だと言ってしまったのは、千紗を苦しめたくなったからだろうか。
「そう。その人、大丈夫だといいね」
千紗は他人事のようにそう返し、もう興味はないといった顔をして、皿を食器棚に仕舞い始めた。
僕はもう何も言わなかった。
ただその千紗の姿をしばらく見つめていた。
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