第一章

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周囲には何軒か家が建っていたが、遥か向こうの樹木が見えるほど、窓からの景色は開けていた。 緩やかな坂が下へ下へと続いている。 正面奥には丹沢山地と白い雪の積もった富士山が見えた。 「あ、ううん。大したことじゃないの。富士山がもう真っ白だなって思って」 「ああ、なんだ。昨晩あっちは雪が降ったんだね。千紗の生まれ故郷は寒いんだろうな」 千紗の生まれ故郷は静岡県だった。 リビングから見える富士山は八合目あたりから頂上までだが、千紗の故郷は麓から拝める。 だがそこに千紗の帰る家はなかった。 千紗の両親は既に亡くなっていた。 一人っ子だった千紗は家や土地を維持することが出来ず、泣く泣く手放したそうだ。 それでも長年過ごした故郷の思い出はある。 離れた場所に居ても富士山が見えるだけで、故郷が自分の近くにある気がして落ち着くのだという。 だから僕は、千紗との結婚後の住まいは富士山が見える場所にしようと決めていた。 それにより東京都外に住むことになったとしても、通勤時間が長く掛かったとしても構わなかった。 だが千紗は僕が無理なく通勤できることを一番に優先してほしいと言ってくれた。 結局、住まいは勤め先がある都内で探すことになった。 都内で都合よく富士山が見える物件はそうそうなかった。 しかもマンションではなく一戸建てを望んだから、尚更だ。 土地の広さや金銭面等の折り合いがつかず、富士見物件を諦めかけていた頃、相談していた不動産屋の一つから、良い土地が売りに出たと連絡があった。 その吉報に現地を確認しに行くと、周囲より高台で日当たりも良く、広さも十分だった。何よりも建物に遮られることなく富士山が見えた。 周辺の土地の価格からしたらかなり破格で、立ち合った担当者にはこの機会を逃したらすぐに売れてしまうとも言われた。 僕はその日に即答でその土地を買った。 出来上がった我が家を何度眺めても、間違った買い物はしていなかったと断言できる。 高台のため、自宅からバス通りまでは緩やかな坂道を上り下りしなくてはならないが適度な運動だと思えば苦にならない。 「じゃあ、行ってくる」 「うん、行ってらっしゃい」 千紗に見送られて、玄関を出た。 朝から富士山が拝めたくらいだ。 空は気持ちよく晴れていた。 傾斜も相まって、爽快な足取りで足早に坂を下る。
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