昭和の終わる音

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 サウンドストリート、ジェットストリーム、クロスオーバーイレブン……  亜子の城である学生宿舎の六畳弱の個室。「音響機器はSONYに限る」と豪語するβビデオ愛用者の父が進学祝いにくれたラジカセから流れてくる深夜の音楽番組をハシゴしながら、レポート用紙を埋めていく。  学内緑地に面した部屋の窓からはその向こうの幹線道路を車が行き交う音、時折飲み会か実験室帰りか近道に突っ切る学生同士の足音と談笑が外の静寂(しじま)を破る。 一九八八年。  亜子はふと、カーテン越しに窓から流れ込んでくる夜半の風を肌寒く感じ、机から立ち上がって細く開けた窓を閉めた。九月も半ばを過ぎ、やっと残暑も収まったようだ。  長雨の頃をやり過ごせば晴れやかな十月がやってくるーー気候変動も気象災害も今ほど酷くはなく、「猛暑日」の代わりに「過ごしやすい季節」がちゃんと存在していた。  北関東の山間部にある亜子の故郷では扇風機一つでひと夏を過ごせた。覚悟していたものの、上京して始めて体感した都市気候の灼熱地獄には驚いた。しかも大学の講義室や学生の部屋にはエアコンなど無いのが当たり前だ。現に亜子の住んでいる鉄筋コンクリ建の寮の個室にも冬用の全館暖房があるだけだ。狭くなるため扇風機も置いていない。  幸い一日の大半を過ごす大学と寮の敷地は緑が多く、昼間のうだるような熱さは何とか我慢できた。が、アスファルトやコンクリートに蓄えられた熱がそのまま籠り続ける熱帯夜にはやはり閉口した。  父が生活習慣に厳しかったお陰で、亜子も受験生時代までは朝型だった。深夜ラジオを聴きながら課題をまとめ、いく分涼しい明け方に窓を開けてまとめて眠る習慣がついたのはこの頃のことだ。  現在の人因的な猛暑では命に関わりかねないが、当時は一階だから窓が開けられず団扇(うちわ)でひたすらあおいでいるとか、備えつけの洗面台で水風呂を決行するとか、上には上のいる「夏の夜の荒行」について、友人達とお互いネタにして楽しむ余裕があった。
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