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そのなかで時代を人々は愛してきた。昭和も結局今では『なつかしの』と言われる。これが『なつかしの昭和』が『なつかしの1926年から1989年』になってしまったら、言いにくいしそこになんの物語も感じられない。せいぜい『なつかしの1980年代』と10年刻みになる程度だろう。10年では短すぎるし、やはり物語がない。
時代という物語に名前をつけること。それを今度、崩御という悲しみのなかではなく始まる時代につけることができる。大正の終わりは悲しみの中だった。昭和の終わりもまた悲しみと自粛の詰まった空気の中だった。
次の時代がきっと明るい物語、すこしでも希望をもった時代になってほしい。そう願うのは名付け親としては当然だし、それは名誉なんて陳腐なものではない。
そして、この激しい呪いに似た苦しみも、実は産みの苦しみなのかもしれない。そして私にはそれが耐えられると期待されている。にもかかわらず採用されずにまぼろしの元号になるのかもしれない。
辛い。でも虚しくはない。信じてやっている仕事だ。多分歴史上の先輩もそうだったと思う。
得られるものはやりがいなんてものではない。もっと、曰く言いがたいものだ。
だからこそ、この呪いも受けようと思った。
そしてもう一度、その自分の案を見て、息を吐いた。
この願いが届くなんて思わない。だが、平泉は願い続ける。新しき世の希望を。
〈了〉
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