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他愛無い日々 35
受験勉強が佳境だった時の話。
俺はリビングのガラステーブルにテキストを広げて、とある問題に集中していた。
時刻は夕方17時45分。
この時間になると外は暗いが、恵鈴はまだ学校の部室で提出用の絵画制作に取り組んでいる。18時半には部室まで迎えに行かなくちゃいけない。
アラームをセットして没頭していたら、あっという間に時間が来た。
だけど丁度その時、もう少しで閃きが降りてきそうな気がして、長い長い45分間の努力が今まさに実ろうとしていた。
キッチンタイマーのボタンを押してアラームを止め、
急いでシャーペンを走らせるとこんな時に限って芯がポキポキ良く折れる。
何かに差し迫られている時っていうシチュエーションが18年間の人生で滅多に遭遇して来なかったせいで、俺はこの背後から追い立てられた時に感じる飛行しているような感覚が新鮮で、気持ちがよくなっていった。
カリカリカリカリ……
最後まで問題の解を書き終えて満足した。
そして、ふっと時計に目をやると。
19時過ぎていたんだ!
「やっべぇぇぇぇ!!」
慌てて立ち上がったものの、長い時間同じ姿勢で胡坐をかいていたせいで痺れて、自分の足に自分が躓いてこけるという不始末。転んだ先にはテレビ台の角に額を打ち付けて、起き上がった時はパタパタと鮮血が俺の顔面を縦断した。
「や………やば!!」
テーブルの上の箱ティッシュに手を伸ばすと、テキストやノートに血が飛び散った。
それを見て慌てて、傷じゃなく汚れたものから血を拭き取ろうとあわてふためく。
そんなことをしている間にも時間は過ぎていくのに。
自分の応用力のなさに情けない気持ちでいっぱいになろうとしていた時。
ガチャ
玄関が開く音と、空気が外に流れていく感覚が。
「あ」
「何それ!どうしたの?」
恵鈴がリビングの入り口に立って、開口一番にそう言った。
飛びつくように駆け寄ってきたと思ったら、手際よく傷を消毒して絆創膏を貼り、血で汚れたノートには氷を乗せて浮き上がった血をタオルで吸い込ませるという、見たこともない見事な技で俺を救ってくれた。
「……ごめん」
「ん?」
「迎えに行けなくて、ごめん」
恵鈴はうつむいている俺の顔を覗き込んできて、おふくろみたいな顔して微笑んだ。
その笑みは100万ドルの夜景よりもずっと美しい。って、知らんけど。
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