三:密命

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三:密命

「明里! 早く犬神を殺せ!」  口の端に泡がつく程、がなり立てる老人の唇に、明里は人差し指を押し立てた。 「旦那。そんな大きな声をだしたら、他の人に聞こえますえ」  はっとしたように老人は小声になる。 「お前程の手だれが手こずるなど……よもやあの男に惚れたと抜かすか?」 「いいえ……存外用心深い男で、なかなか隙を見せずに苦労してるのでありんす」  媚びる様に顎から首へ……そして胸元と、撫でながら言ってみたが、ぱしりと手を振り払われた。 「卑しい遊女の分際で触るな」  花街にやってきておかしな話だが、この老人が明里を抱いた事は一度もない。正体を隠したお忍びの客……という振りをした、殺しの依頼の為だけだ。  犬神准将。国民の間では「英雄」と持て囃す者も多く、軍部が力を持つ事に反対な政治家達にはさぞ目障りだろう。 「あの人はあちきに首ったけ。何度も通ってくださんす。次こそは……」  そう言いかけたところで、老人が立ち上がった。視線の先には禿の鈴がいる。老人に睨まれ、鈴は怯えた様に身を震わせた。 「そうか……なら、次に殺し損ねたら、この娘とお前を殺すぞ」  思わずぞっとして表情を引きつらせる。自分を売った家族の事など欠片も覚えてないし、妓楼に義理立てする程の情もない。だが……この子だけは別だ。姐さん、姐さんと慕ってくれる鈴の事が可愛い。 「わかったならさっさと殺せ。いいな」  それだけ言って老人は帰っていった。もはや躊躇う猶予もない。次こそはあの人を殺さないと。
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