バッカスは恋する乙女に微笑んで

1/1
121人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

バッカスは恋する乙女に微笑んで

もし本当に、この手にしたグラスに宿る神が居たなら、わたしは願う。 この一時を、明日は笑って話せるようにと。 ◇◆◇ 「しーずーるーちゃーーーんっ!!!」 けたたましい、とでも言われそうな声をあげ、わたしは右横でウーロンハイをちびちび啜る後輩女子を抱きしめた。 「きゃー! 真紀先輩ったら、またですか!」 酔っ払い親父に襲われたよろしく、小柄なしずるちゃんが抱きつこうとするわたしの手を受け止め、そのまま柔い身体を抱きしめさせてくれる。 うーん。やっぱり若い子は良いなぁ。 しずるちゃんは可愛い。それはもう、社会現象化した某アイドルグループなんて比べ物にならないほどに。漂白してるのかと言いたくなるほどの白い肌、黒目が大きな潤んだお目めにサラ艶のロングストレート。 どこの深窓の令嬢かと初対面では思ったけれど、わたしと同じく普通のOLさんである。 まあわたしとは天と地ほどの差があるが。そのわたしはといえば、胸張りたいわけじゃないがバリバリの黄色人種の肌色に、二重の割には薄めの目元。梅雨ごろには毟り取りたくなる天然パーマな髪質は、朝セットするのが面倒で肩までしか伸ばせない。 神様って不公平だ。幼い頃から気付いてはいたけれど。 容姿は仕方ないとしても、せめて胸くらい与えてくれたっていいじゃないか。わたしのぺたりとした大平原な胸が、しずるちゃんのふっかふかのお胸に当たって、二人の間に隙間を作る。やっぱり女子は胸だなぁと、切ないながらも思う。 いーなぁ巨乳。ロリ顔巨乳ってまじやばくないか。 若干セクハラ親父めいた感想を浮かべながら、ごろごろと猫が頬ずりするように、しずるちゃんにすりすりしていると、反対側、左隣にいた『ヤツ』が声を上げた。 「真紀! お前また酔っ払ってんのかっ。もういい加減にしろよな! 弱いくせにばかすか飲みやがって!」 人の襟首引っつかんで、まるで猫にするみたいに軽くぐいっと持ち上げられた。 扱いが雑過ぎやしないか、東條め。 女扱いされてないのは前々からだけど、ここまで意識されてなければもう完敗だ。酒の熱が篭る目で、失礼な男を見上げた。作りの良い顔が目に入る。 ああもう。やっぱ良いなあ、コイツ。 不機嫌そうな顔に、わたしは酔っ払い独特のへらっとした笑顔を向けた。 「なぁによ東條ー。酔って何が悪いー。酒というものは、酔う為にあるのだよ!」 わたしの反論に、形の良い眉が一層顰められた。この呑んだくれめって暴言を吐かれる。 むう。人をまるでおっさんみたいに。いや、やってることはおっさんと変わりないのだが。 同じ企画部に所属している東條 慎(とうじょう まこと)。同期だけど歳は二つ上の三十二歳。たった二歳ばかしなのに、年上だからとやたら兄貴面して構ってくれる。 撫で付けられた黒髪は艶やかで。怒ったような瞳には少しの酒気が見えていて。男に色気を感じたのなんてコイツが初めてだった。 薄めの奥二重に垂れ気味の目尻、怒ったように顰められた眉。この顔が、すごく好き。 「とーじょーーのあほー。離せーっ。わたしからしずるちゃんを取るなー。わたしの癒しを返せー」 酒で呂律の回っていない口を動かしながら、わたしは未だ手を放さない東條にクレームを飛ばした。 この次にする行動を、しっかり計画しながら。 「うるせーぞ。佐伯さんはお前の癒しアイテムじゃねーんだよ。それに彼氏に怒られるだろうが」 うむぅ。と言葉に詰まったフリをする。わたしの可愛い可愛い後輩、佐伯しずるちゃんにはれっきとした彼氏さんがいる。 経理部長の香坂さんだ。嫉妬深いというか、しずるちゃんへの執着は傍から見ているこっちがびびるほど、彼女は溺愛されていた。 だってこの前釘刺されたもんね。「しずるは僕のですから」って。僕のって言ったんだよ?わたし女だよ?彼女と同姓のわたしにさえ嫉妬するほど、愛しちゃってるんだねぇ。 わたしはそれが、泣きたくなるほど羨ましい。 む、とした顔で呆れたような目をわたしに向けるこの男に、いつの頃からか自分も同じほど「愛されたい」と、そう思って。 好きだと気付いたのはいつだったか。それすらもう覚えていないけれど。 さて、それではそろそろ、と頭を切り替える。 ……計画を達成しておきますか。 顔には一切出さず。自然に。バレない様に。 「んもーーーしゃーーーない! うりゃっ!!」 「うっわっ!?」 一声上げて、身体を捻る。わたしの首根っこを掴んでいた東條の手を振りほどき、わたしはソイツに飛びついた。 感じた体温に、計画通りとほくそ笑む。酔っ払いを続けながら、わたしは心で舌を出した。 「真紀っ! 俺は佐伯さんじゃねぇぞ……っ!!」 「なーによーう。なら東條がしずるちゃんの代わりになってよーう。わたしの癒し〜っ」 「っ、このっ……酔っ払いがっ!」 飛びついた胸板の厚さに、心が弾み出すのを堪えながら、わたしは彼にもしずるちゃんにしたように顔をすりすりと擦り付けた。 頭の上で、「ばっ、な、おいっ!」とか言葉になってない東條の声が上がっているけど、気にしない。ひたすらぎゅうぎゅうと子供が親に抱きつくみたいにしがみつく。 色気もなんにもないけれど、それでもいい。 だって今日しかないんだもの。今日しか。コイツに酔ったフリをしてーーー触れることができるのは。 「きゃー! 真紀先輩の抱きつき魔!!」 しずるちゃんが黄色い声をあげ、周囲からも笑い声が響く。 いいの。どうせ明日には忘れるんだから。明日の朝には、覚えてないフリして逃げ切るんだから。セクハラだって罵られても知るもんか。 こうするしか企画部のお局が、同じく企画部のしかもエースの東條に抱きつく機会なんてないんだから。今だけだから、許してよ。明日からは、また男勝りな仕事女に戻るから。 気の良い女友達。そんな位置づけが辛いと感じ出したのはいつからだったろう。 毎年行われる忘年会、新年会。お酒が絡む場所で、わたしが発揮する酒癖は、もう社内でも有名な話。 『抱きつき魔』 後輩の女の子に、次々抱きついて「癒されるぅ~」とのたまうわたしの妙技。女の子にしかやらないから、と黙認されていたけれど、今年だけは違った。 わたしは今まで築き上げた「抱きつき魔」の称号を盾に、今日この一度だけ大好きな人の胸に抱かれる事を望んだ。 酒の勢い、酒の力。ここまでくるのは長かった。 恋に積極的な人から言えば、馬鹿らしいと言われるのかもしれない。 けど、別に良い。たった一度抱きつくだけなんて、ささやか過ぎる願いじゃないか。そんな小さな願いさえ、わたしには叶える事が難しいのだもの。 なんとでも言えばいい。臆病なわたしには、こんな姑息な手しか思い浮かばないのだから。 彼に想いを伝える事を、考えなかったわけじゃない。だけどやっぱり神様は不公平で、その気持ちを固める前に、東條にずっと想っている人がいることを知ってしまった。 長い片思いらしかった。 東條は見目も良いし、仕事もできる。少々おせっかいだけど良い奴だ。そんな彼に想いを寄せられている人が、わたしは羨ましくて仕方がない。 本当か嘘かは知らないけれど、今行われている春の新規プロジェクトの企画コンペで、彼は自分の案が通ったらその想い人に告白すると言ったらしい。 それを聞いた時のわたしは、足元が崩れ落ちていく気がした。 同期で、同じ部署のお局とエースという立場だったけれど、気安い関係だった。奴の企画が通った時に祝い酒と飲みに行き、落ちた時には反省会だと言って飲みに行った。 でも、その関係ももう終わりになるのだろう。今回の企画案、ヤツのは通ってしまうから。 ほぼ確定だと言う話を、しずるちゃんの彼である香坂部長から漏れ聞いた。うちの企画部部長と幼馴染の人が言う言葉だから、間違いない。 ならばせめて。 伝えられなかったこの気持ちへの最後の贐(はなむけ)として、たった一度の抱擁を。 明日の朝にはまた、笑い話になる予定の一大決心。わたしが好きになった人は、友達だからなんて理由でこんなセクハラまがいの接触ですら許してくれるだろうから。その優しさがどれだけ残酷であろうとも、甘んじて受けるのがわたしへの罰だ。 だけどまあ、そろそろ潮時かな。あまり長く東條に抱きついていたら、不審に思われるかもしれないし。だって普段は女の子にしかやらないもの。今日はたまたま、ノリでやっただけ、そう思ってもらわないといけないから。 最後に一度だけ、ぎゅっと力を込めて抱きしめた。 「……ん~~~やっぱし女の子がいいなぁ~~~」 なんて言いながら、名残惜しいけれど東條の胸から手を放す。 だけど、離したはずの手が、ぐいと後ろに引っ張られてよろめいた。 はい? ぼすんと受け止められたのは、なぜか再び東條の胸の中で。 ……え? 「すいません。真紀のヤツ今日は早く酔っ払ってるみたいなんで、迷惑かけないうちに送ってきます」 わたしが酔うのなんていつもの事なのに、有無を言わさない雰囲気で東條が言葉を畳む。くっついた身体に低く響いたその声に、ドキリと鼓動が跳ね上げた。 周りの誰かが返事を返す前に、東條はわたしの身体を引っ張り上げると、そのままバッグを引っ掴んで宴会場から足早に出て行こうとする。わたしは半ば引きずられるように、けれどほとんど抱き抱えられるような格好で、遠ざかっていくみんなをぽかんと見ていた。 ーーーすると、なぜかわたしに向かってひらひらと、微笑みながら手を振るしずるちゃんがいた。 え。 何これ。どうなってんの? 予定が狂って混乱するわたしをよそに、東條は店を出てすぐに止まっていたタクシーへと乗り込んだ。半ば押し込む様にわたしを乗せて、そのまま無言でバッグをぽんと膝の上に置き、運転手に向かって行先を告げる。 「駅前のヒルトンホテルまで」 簡潔に言われた場所の名を、一瞬理解する事が出来なくて。ゆっくりと流れる様に走り出す動きを感じ取りながら、東條の顔を凝視した。 だけど。 流すように向けられた黒い瞳に、「なぜ」という言葉が掻き消える。細くわたしを見据える目の奥に、何かがちらちらと燃えていた。 やがて宴会場として使っていた店からほど近い場所に、タクシーが走り着いた。支払いを手早く済ませた東條は、またわたしの手を掴むと、そのままぐいぐいとホテルの中へと入っていく。チェックインしている間も、エレベーターにいる間も、東條は、掴んだままの手を離さなかった。 なんで。どうして。わたしと。 ホテルに来ているその意味が、わからないわけじゃない。 だけど、理由がわからない。 混乱したまま、流されるまま、寝室まで連れて行かれて。目の前にはキングサイズの、メイキングされたベッドがあった。まるで少女の頃みたいにかあっと頬が熱くなる。酔いのせいじゃなかった。「な、なん、で……」 「それ、聞くか?」 質問に返された質問に一層わけがわからなくなって、わたしはじりっと後ずさりした。ここまで着いて来ておいて、怖気付くなんて馬鹿みたいだ。だけど頭がついて来ていない。心も同じく置いてけぼりで。 「だっ、て」こちらの心のもたつきなんておかまいなしに、東條の片手がとんっとわたしの身体を軽く押した。 ぽすん、と浅い音を立てて、わたしはベッドに倒れこんだ。スプリングが跳ねて、身体が一瞬宙に浮く。けれどすぐさまふわりとした布団に沈み込んだ。まるで水に落ちるように。 ーーーちょっと待って。 ちょっと待って。 「ちょっと待ってっ!!」 「待つわけねーだろ」 ベッドの上でも尚後ずさるわたしに東條が覆い被さる様にして、その上にあがる。きしりと軋む音が静かな部屋に木霊した。 嫌なわけじゃない。だって好きだもの。 だけどわからない理由に不安になる。お酒の勢いでの一夜を望むほど、馬鹿な女にはなりたくない。だから、同じ酒の力でもこの胸に飛び込む程度で終わらせるつもりだったのだ。 なのに。 シーツに縫い付けられた身体は、わたしの本心がさせるのか抵抗という抵抗もできなくて。首筋を辿る東條の吐息が、まるで麻酔みたいに四肢の力を抜いていく。 この心の焼けつきは、酒精によるものか、それとも。 だってずっとずっと、触れたかった。触れて欲しかった。 自分から胸に飛び込んでおいて、抱き締めて欲しいと願った。見つめ続けた大好きな彼の顔。落とされた口づけに、羞恥も、戸惑いも何もかもが消え去っていく。 「惚れた女を欲しがって、何が悪い」 唇をほんの一瞬離して呟かれたその言葉に、わたしは身も心も、蕩けてーーー落ちた。 ◇◆◇ 泣かされて、啼かされた夜が明け、尚もわたしを抱きこんで離さない彼が放った言葉。 「今出してる企画案が通ったら、真紀に伝えるつもりだったんだ。結婚を前提に、俺と付き合ってくれって」 一気にかけ上がった体温に、わたしは思わず頭をシーツに突っ込んだ。 ああなんてこと。 東條の片思いの相手は、わたしだったのか。わたしは、自分に嫉妬してたのか。 露ほども考えなかった真実に、混乱と嬉しさとが入り混じってぐちゃぐちゃで。 だけど確かに彼に愛された証が、今、自分の身体に刻まれていて。じんわりと、込み上げる涙の雫と一緒に心が震えた。 そんなわたしの顔を引き出すように、東條がシーツを取っ払い、わたしの表情を露わにする。大好きな、薄めの二重に垂れた瞳が、柔らかな笑顔を浮かべていた。 「篠原 真紀さん」 フルネームで呼ばれたのはいつぶりだろうと、彼の顔に見蕩れながらぼうっと考える。いつの間にかぎゅっと握られた掌は、まるで捕まっているみたいだと、そう思った。 「結婚を前提に、俺と付き合って下さい。いや、むしろ結婚を確定として、が正解だな」 告げられたとどめの言葉に。 「は、はいっ!」 精一杯の返事を返して。 そうしてわたしは、今度は素面で、大好きな人に抱きついた。 手にしたグラスの中に宿る神。 バッカスの微笑みは、あの時わたしに向けられたのだろうか。 願わくば、恋する乙女達すべてに、酒の神バッカスの祝福があらんことを。 <終>
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!