第1章

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「…なるほど。そうでしたか」 「…そうでしたかだと!? なぜおまえは学徒出陣要請で【望】に丸をつけ出した? 杉田(すぎた)次官め。 『さすが名門一族のご子息だ。率先して学徒の手本になられた』等とぬかしおって。 …まさかおまえ本気で行く訳ではあるまいな? もしそうだとするなら、提出書類は無効にさせる」 父親がそう言った途端、青年は高らかに笑った。 「…父上、あなたは全く呆れた人だ。 もし僕が出陣不可に丸をしたところで、 大学側は休学か退学扱いにするでしょう。 そういうご時世です。杉田さんの仰るように、華族こそ国の手本にならねばいけない。 どのみち逃れられはしないのです。 ならば甘んじて受け入れるが勝ちです」 「…ならぬならぬならぬ断じてならぬっ…!!!」 恐らく父親が壁に激しく拳を打ち付けたのだろう。 その怒りは壁づたいに、私のいる場所まで伝わった。 「…旦那様どうかお怒りをお納めに…」 キヌさんの啜り泣くような声が聞こえ、 先程父親を宥めていた男の声もモソモソと混じる。 それが余程煩わしかったのか、父親は青年を自分の体ごとこの部屋に押し入れると、ガチャリと鍵をかけてしまった。 「…もう何もお話することはありませんよ父上。どこまでいっても話は平行線だ」 私なら萎縮してしまうような怒りにも、 青年は全く動じていないようだった。 ベッドの下、薄暗く狭いスペースから見える4つの爪先。 黒く光る皮のブーツは父親のもので、 残る2つは見覚えのあるチャコールグレーの青年の革靴だ。 明治、大正、昭和初期。正解は一番最後だった。 学徒出陣ともなれば、第二次世界大戦末期。 日本の敗戦色が一層濃くなった頃だと記憶している   つまり私は、雷に打たれ、最悪な時代にタイムスリップしたということになる。
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