第1章

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「…あの…とてもお腹がすいていて。 申し訳ないのですが、 何かいただけると有り難いです」 私がこんな失礼な頼みごとを他人にするのは、生まれて初めてのことだ。 けれどここは一旦人払いをする必要がある。 そんな私の思惑など気づかないのか、 キヌさんは何度も小刻みに頷き笑みを浮かべた。 「承知いたしました。 今暫くお待ちください。料理人に伝えて参ります。消化が良く精のつくものを」 「…りょ…」 呟き終えないうち、キヌさんは扉の向こうに消える。 普通の17歳、 特に友里亜のような女子高生ならたちまちパニックに陥るはずだ。 だが私はそんな基準から遠くかけ離れている。 胸元の合わさから浴衣を着ていることを確認したその次は、 ベッドから這い出し、自分の姿を映すべき鏡を探すこと。 冷静な行動を積み重ねさえすれば、 人はパニックを阻止できる。 その全ての喜怒哀楽すら、胸の奥に封じ込めることができるのだ。 そして鏡はすぐ見つかった。 手鏡でないところも有り難い。 漆喰の白壁にピタリと背を付けた鏡台。 そこにも各所に葡萄の房や蔓が精密に刻まれている。 磨きあげられた鏡の中の自分と目が合い、 思わず目をそらしてしまったが、あの大先生の言うとは本当だったらしい。 再び向き直った私の顔は、 髪を括っていないこと以外、何も変化はなかったのだから。 なら体はどうなのだろう。 帯をほどくと、衣擦れの音を伴い 浴衣がストンと足元に落ちた。 下着は身に付けていず、雷に打たれたなら出来るであろう傷もない。 腕の上部に微かなかすり傷がある程度。 それを指先で撫でふいに気づいた。 鏡に映り込む自分以外の人影にだ。 悲鳴を飲み込み振り向くと、 幽霊かと思えた青年はやはり存在した。 「…ノック…してください…」 「…ごめん。何度もしたんだけど気づかなかった? 反応がないから、また具合を悪くしたのかと思って」 浴衣をかき抱き立ち尽くす私に、 その青年は長い睫毛を付せた。
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