第1章

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キヌさんはそれから甲斐甲斐しくという言葉ぴったりに、私の世話を焼いてくれた。 少しお待ちを、とキヌさんに待たされている間、出来たことと云えばあのボトルを隠すことだけ。 青年が隠していた場所と同じ鏡台下部にある、小さな扉を開けると、香水瓶に紛れて写真立てが幾つかあった。 写真で微笑む貴婦人は、レースが贅沢に使用されたドレスを身に付け、胸に幼子を抱いていた。その傍らには七歳くらいの男の子と見覚えある口髭男…。 そうあの父親だ。 そしてこの幼子は恐らく青年であり、 抱いているのは母親であるシヅ江さん。 だとしたらこの男の子は誰なんだろう。 いつの間にかセピアの世界に引き込まれ、ノックの音にも気づかずにいた。 「…さあ、寝間のままで結構ですから、 どうぞお召し上がりになってください」 現れたキヌさんは、移動式のワゴンテーブルを、物々しく部屋の中央まで押し進めた。 何といっても時代は戦時中。 教科書で習ったような質素な食事を想像していた私はまず、その彩りの多さに目を見張った。 「…こんな豪華な食事を…」 「ええ。このご時勢ですから大きな声では言えませんが、あるところにはあるんです。なにせ旦那様は海軍大臣でいらっしゃいますから、食糧だけには事欠きません。 チキンの香草焼きに、グラタン、それから季節のサラダと、後はチョコレートムースのデザートも用意しております」 キヌさんはそう言うと、私をベッドに座らせ、その前にテーブルをピタリと付けた。 「何分、料理人も兵隊にとられ今は1人しかおりませんゆえ、お気に召されるかわかりませんが、海里坊っちゃまのお客様として、手厚くおもてなしさせていただきます」 キヌさんがチキンにナイフを入れ、皿に取り分けソースのようなものをかける。 肉汁とバターの匂いが立ち込め、またお腹がグゥと鳴った。 「…ありがとうございます。後は自分でできますから」 「…そうですか?お食事のされ方も覚えていらっしゃらないかと…」 「…まさか。…もしかしてあの海里という人が何か変なことを言ったんでしょうか?」 私がそう訊くと、キヌさんはすまなさそうに目を伏せた。 「…いえ…あの…こんなことをご本人に言うのは失礼だと思うのですがつまり…風子様は名前以外の記憶を無くされていると坊っちゃまから聞いたもので…」
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