III qasr

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 不老不死の師匠に育てられたためか、元々ハーヴェルは不死に対してあまり違和感が無かった。  だが、そうではない人間が、自身で不死になる道を選ぶのは、やはりそれなりの決心が要るものなのか。  一種異様な世界に足を踏み入れるような覚悟が要ると聞いたことはあるが。 「イハーブからは、いまだに何の連絡もないの?」  不意にカディーザは言った。 「ないよ」  ハーヴェルは短く答えた。 「それ聞かれるの、久し振りだな。前はしょっちゅう聞かれてたけど」 「あの馬鹿。弟子も仕事も放り出して、三十年もどこで何してんのかしら」  カディーザは、(ほつ)れた白髪混じりの髪を掻き上げた。 「本当にいきなりいなくなったの?」 「朝起きたらいなかった感じ」  ハーヴェルは陶器製の乳鉢を取り出し、カチャカチャと音を立てて薬の調合を始めた。 「夜中まで数式の計算してたみたいだけど」  何度もした会話だ。  作業をしながらでも繰り返せる。 「整腸剤は入れた方がいいかな?」 「あなたの裁量でいいわ。……書き置きの類いもなし?」 「何も」  ハーヴェルは整腸剤を(さじ)(すく)った。  乳鉢に混ぜる。 「数式を書いたメモは大量にあったけどね。例の」 「ああ」  カディーザは目線を少し動かし、記憶を探るような表情をした。 「気でも狂っていたのかしらね」  カディーザは言った。  半分以上は冗談であろうがとハーヴェルは思った。  数式の大部分が理解不能な内容だった。  イハーブの昔の弟子仲間のうち、存命の人物にも何人か聞いてみた。  高次元に関しての数式だということは分かるのだが、それ以上のことが誰にも分からなかった。  ひとつのことを表した式ではなく、複数の式なのではと言う者もいた。  いまだ推測の範囲から進まない。 「直前までまともだったよ。いつも通りだった」  ハーヴェルは言った。 「いなくなった理由と数式は関係ないんじゃないかな」  二、三度薬をかき混ぜ、ハーヴェルは苦笑した。 「急に嫌になっただけじゃないかな。男やもめで自由にやってたところに、いきなり十歳の子供が転がり込んだんだから」  カチャカチャと乳鉢の音を立てる。 「一年後には、駄々こねて無理やり弟子になったし」
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