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こうした実家の事情から、お吟は大奥から戻って一か月目にして、町屋住まいの身に為ったのである。
岡っ引きの伊三とは、父が同心だった頃からの付き合い。もう五十に手が届く年の伊三は、最近では息子の伊三次(いさじ)に岡っ引きを譲って、飯屋のオヤジをして居る。
「お嬢様、気兼ねなく居てくださいよ」
「ありがとう。よろしくお願いします」
殊勝に頭を下げるお吟を、可哀想だと思っていた。
「やっぱり赤子の時にお外で育ったお吟ちゃんには、圭吾さまは冷たいねぇ」、伊三と女房のお喜多が囁き合ったものだ。
そのお吟だが。二人が営む飯屋を手伝いながら町方に馴染むのにも、さして時間はかからなかった。江戸の町は、いつも活気にあふれて魅力的だ。物売りの声が大路を満たし、賑やかな往来の中に人々の暮らしが息づく。
江戸っ子の息吹に満ちて、町は鮮やかな色を纏った生き物の様だと、お吟はいつも目を見張る。
「帰ってこれて良かったよぉ。大奥じゃ、こんなに素敵なお江戸の朝は見れないよ」、早起きは三文の得というのが、江戸っ子の合言葉だ。
外の掃除から、店の準備まで活き活きと手伝うお吟は、何処から見ても町娘にしか見えない。
久しぶりに勝治が見たお吟は、そんな少女だった。
お茂のところにも、大奥から帰って来るとすぐに挨拶に飛んで行った。
自分の乳で育てたお吟にはいつもベタ甘なお茂は、もう一人のお吟のおっ母さんだ。
いつも「おっ母さん」、と呼んでいる。
その日もお茂から預かったお吟の着物を、大量に届けに来た勝治だ。
大きな風呂敷包みが二つもある。仕方なく、組の鳶を手伝いに頼んで持って来た。
「おっ母さんたら、もぉ~。こんなに沢山の着物、着きれやしないよぉ」
呆れて言うほど、たくさんの着物を届けて来たお茂である。町娘姿が早く見たくって、左文字組の屋敷にある着物の中から、季節にあうガラを選んで持たせて寄越したのだ。
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