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「お吟ちゃんはウチのお袋が作った着物の量を知らないから、そんなことを言うのさ。奥の座敷の箪笥に二本。仕立て下ろしがいっぱい詰まってるよ」
「早く着替えなよ。縞の着物じゃぁ、お袋が納得しないね」
催促されて仕方なく、大きな楓が色鮮やかな染物の小袖に手を通した。
勝治が笑って、お吟の姿を上から下まで見回した。
「どっから見ても、立派な町娘だ。可愛いよ」
頬が染まった。
お吟とは三つ違いの勝治。
体つきは兄の辰治よりも幾分細めだが、性格はずっと優しい。
昔から、実の兄の圭吾とよりもずっと、お吟と仲よしだった。
嬉しそうに笑う開けっ広げなお吟が、如何やって奥女中に化けて二年間も、気品ある大奥の女中に成りすまして猫をかぶっていられたのか、興味津々だった。
「本当に奥女中さまなんてものを、お吟ちゃんは遣ってたのかい」
微笑みが似合う、いつも優しいアニキのような勝治だから、つい気を許してお吟は何でも話してしまう。
その日も、左文字組の屋敷まで一緒に歩く道すがら、大奥での数々の失敗談で盛り上がった。勝治の爽やかな笑い声が嬉しい。
本当の兄が勝治だったら、どんなに良いかと思っていた。
然し、同じ兄弟でも辰治は頂けない。
これがあの辰治が相手だと、こうはいかないのである。
あのキツイ眼差しで上から下まで眺められた日には、背筋がぞくっとして寒気が奔るのだ。加えて皮肉な表情で、唇を歪めて嫌味を言う。
秀治とお茂の企みをまったく知らないお吟には、辰治の敵意の正体がまるで解っていなかった。
今日も、左文字組の屋敷に行くのが何となく気が重い。
「お吟ちゃんは、ウチにくればいいじゃ無いか。お袋が泣いて喜ぶぜ」
気持ちは嬉しいが、辰治と同居は何が在っても御免蒙る。
「それよかね、伊三親分の飯屋を手伝ってると、【赤猫】の捜査の進展具合が解って、愉しいのよ」
剣呑な事を言って、微笑んだりした。
奉行所の見習い同心をして居る幼馴染たちを招集して集めた情報も、やはりリアルタイムの現場情報には勝てない。
伊三次と子分の下っ引き達が、飯屋によって昼を食べながらする話しに、耳をそばだてて聴き入った。
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