第一章  お江戸は今日も大騒ぎ

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 3・  同心は、火消屋敷で臥煙を殺すことを躊躇った。幕府から預かっている屋敷を、血では汚せない。  仕方なく始末する場所を変えた。臥煙の二人を隅田川の河口近くまで、上手くだまして船で連れ出したのである。  葦が生い茂る岸辺の草叢に連れ込まれて騙されたと知った臥煙は、匕首を抜いて身構えた。鞘を払った刀を振るって切ろうとした刹那、御庭番の数人に囲まれて、あっという間に同心は昏倒。  御庭番は臥煙を無傷で捕縛したのである。  「大岡様、生き証人をお渡し申す」  天井裏からの声にさすがの忠相も驚いた。導かれるままに役宅の庭先に出て、手足を縛られ猿轡を咬まされた男二人が、松の根元に転がされているのを発見したのである。  「上様からのご指示にござる。旗本を評定所で裁いては幕府の恥。速やかに病死をさせよ、とのご命にて」  「大岡様に申し上げる。【赤猫】の詮議は此処までにいたせとの御意!」、声が消えると同時に、忍びの気配も消えた。  奉行は、聞き直さなかった。  翌日の午後に、お白洲にて火付け犯の二人の裁きが開かれて、問答無用で火刑が決定。  その朝には既に、長内佐兵衛は拝領屋敷の自室で心不全で死んで居るのが発見された、と公儀に届け出があったとか。  奉行所に左文字組の頭・秀治を呼んで、大岡越前が長内佐兵衛の企みを話した。  「其の方、八丁堀小町と噂にたかい矢島吟を、息子の嫁に望んで居ると聞いたゾ。分不相応な望み故、聞かなかったことにしてやろう」、含み笑いを漏らした。  弱みにつけ込まれたのは、その後だった。  「美代鶴に、重い咎を与えることは叶わぬが、処払いくらいにはしてくれよう。それで辰治の熱も冷めよう。この度の手柄は辰治にある。勘当は許さぬぞ」  「其処でじゃ。新しく設立する町火消しの“い組”を任せる故、お値打ち価格で引き受けよ」、と捻じ込まれた秀治。仕方なく引き受けはしたが、一言だけ交渉した。  「お吟さまが、手前どもの息子と恋に落ちましたなら、嫁取りをお許しいただけまするか」  大岡越前が爆笑した。  「他人の恋路を踏みにじるほど、儂は暇ではない。その時は、儂が仲人を致してくれるわ」  こうして【赤猫】事件は、闇に葬られて決着した。
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