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大奥から帰って来て僅か十日にして、お吟はスッカリ以前の八丁堀の暮らしに馴染んでいた。
縞の着物に襷がけで、台所に立っている。
病気がちな母親の為に、裏長屋のおかみさんに台所仕事を頼んでいる矢島家だが、今日はそのおかみさんの休日。
久しぶりの台所仕事に腕が鳴る。
やって来た魚屋を相手に、奮闘中だった。
「今日は鯵が、随分と高いんじゃ無いのかい。切り良く残りの五匹を全部買ってあげるから、ちぃとはまけなヨ」
朝のうちに買った魚は、開きにして夕餉に食べるのが、江戸っ子のおいしい食べ方だ。
棒振り相手に、平気で値切ったりしているお吟の話を、鳶の頭が面白そうな顔で後ろに立って聞いていた。
「与左衛門さまは、お出でかぃ」
かけられた太い声に、おきゃんで色白のお吟の顔にも、大きな明るい笑みが浮かぶ。
元気よくお振り向いた。
今日もまた、父親と将棋を指しに来たらしい鳶の頭。二人は昔から十日に一度は、真剣勝負をして居る。
「お吟ちゃんも、なかなかおやりに為る。とても十日前まで大奥のお女中だった、とは思えませぬな」
微笑みを浮かべて、秀治が揶揄った。
「揶揄っちゃいやですよ。ウチは貧乏な八丁堀の同心。こうでもしなきゃ、遣り繰りが付きゃしないわ」
明るく笑って、「どうぞ、上がってくださいな。左文字組の頭」、と言った。
母の千鶴が病がちのせいで、十歳に為った頃から台所を手伝ってきたお吟には、生きていくたくましさが浸み込んでいる。
「今日は小頭の佐吉さんは、一緒じゃ無いの?」
襷を外しながら聞く、少しがっかりした声はまだ、可愛い少女のものだ。
秀治の顔に、思わず苦笑が浮ぶ。
お吟が小頭に昔っから“ほの字”なのは、先刻承知だ。正月と盆には大奥から僅かなお暇を頂いて実家に帰れるお吟が、その少ない時間をさいて、小頭目当てに必ず鳶の頭を訪ねてきた。
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