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2・
その頃、左文字組では、ひと騒動が巻き起こっていた。
秀治には息子が二人いる。
その長男の辰治が、秀治に黙って背中に不動明王の彫り物を背負った事が、遂に露見したのだ。
「この大馬鹿野郎があ!。親から貰った肌を汚すたぁ、どういう了見でぇ」
憤怒の形相も猛々しく、秀治が怒り狂っている。怒るには、怒るだけの理由があった。
「あんたぁ…・もうお吟ちゃんを、ウチの嫁には貰えないよぉ~…」
左文字組の姐さんのお茂が、気を失って大騒ぎに為ったのだ。
お茂は次男の勝治を産んだ三年後、念願の女の子を授かったが、生まれてすぐに死なせてしまうと言う不幸に見舞われた。子が死んでも乳が止まらず、哀しみは募った。
悲嘆にくれ自殺しかねない女房を抱えて、その頃の秀治は困り果てていた。
そんな時に、付き合いのある八丁堀同心の矢島与左衛門の妻が、女の子を産んだものの難産だった為に、乳が止まってしまうと言うアクシデントに見舞われていた。
その上、産後の肥立ちが悪く、床上げが出来ずにいた。
お腹を空かせて泣き叫ぶ赤子を抱えて困っていた同心に、赤子を預かりたいと申し出たのが、お吟を左文字組の家に連れて来た切っ掛けだった。
お茂は、無心に乳を吸うお吟に夢中になった。二歳に為ったお吟を矢島家に帰すと決まった時には、寝込んだほど慈しんで育てた。
そんなお茂の夢が、左文字組の跡取り息子の嫁に、お吟を迎える事だったのだ。
二十三歳の辰治は、既に左文字組の鳶職からは一目置かれるほどの漢に育っている。
親の目から見ても、筋肉質の引き締まった体つきで長身の辰治は、中々の漢っぷりだ。
(後はお吟ちゃんの気持ちを聞くだけだ)と思っていた。
「お吟ちゃんとは、七つ違い。齢まわりも丁度いいよ」
お茂はお吟を再び娘に迎えられる日を、それはそれは楽しみにしていたのである。
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