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辰治は遠慮がちな勝治の声を聞くまでは、お吟なんていう色気もなにも無い小娘は、誰にでも熨斗を付けてくれてやる気だった。だが弟の言葉に、なぜか不意に不快感が湧き起こった。
つい意地悪が、口をついて出る。
「おい!あんな小娘でお前ぇは良いのか。お前ぇ、気ぃは確かか」
「嫁に貰ってから、しまったって気付いたってよぉ。遅いんだぜ」
その辰治の口から出た言葉に、お茂が飛びついた。
「そうだよ!お前さん。ウチにはもう一人息子がいたよ。然も、堅気の町医者を目指してるんだ。お武家の娘を、嫁に貰える身分になれる息子だよ」
気付いた事実に、狂喜している。
さすがは鳶を束ねる左文字組の姐さんだけあって、立ち直りが早い。
「いや、それよかお茂。勝治を預けてる良晏先生には子供が居ねぇ。いっそお吟ちゃんを養女にして貰ってよぉ、勝治は入り婿でどうでぇ」
「お前さんは、なんて頭がいいんだい。それがいいよぉ」
二人の間ですっかり話が出来上がって、息子の意見などはそっちのけで、大いに盛り上がっている。
「辰治、お前ぇはもういいやな。お前ぇは美代鶴でも何でも、好きにしねぇな。お吟ちゃんの婿は、勝治できまりよ」
「あぁ、忙しくなるよ。お吟ちゃんの兄上様にお願いに上がらなきゃねぇ」
お茂が大喜びではしゃいでいるのを、茫然と辰治は見ていた。
もっと揉めるはずだったのに、気づけばお吟は弟の嫁候補。やがては妹に為ると、ほぼ決定事項になりつつある。
「勝手にしやがれ!」
捨て台詞を吐いて、ご執心の美代鶴の家に出かけて行ったのだった。
左文字組の思惑とは関係なく、お吟も困った立場に立ちつつあった。
兄の圭吾に、八丁堀の組屋敷で二軒隣の吟味与力・臼井健四郎から見合い話が持ち込まれたのである。
同じ八丁堀の組屋敷の中にあるとは言っても、奉行所での立場が天と地ほども違う与力と同心では、その屋敷も月とスッポン。
与力の屋敷は冠木門を構えた書院造りで、部屋数も十室はある。其れに比べて、同心の屋敷は柱を二本立てただけの木戸門で、屋敷の造りも武家屋敷と言うよりは町屋に近い。
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