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第二章 凶賊【赤猫】・参上
(琴絵さま)
旗本屋敷のお正月は厳粛に、粛々と過ぎていく。
庭には雪が儚げに、時折風に舞う。
「琴絵さま。書院にて殿様がお呼びで御座りまする」
襖紙越しに優しい声が掛かった。
母亡きあと、奥を取り仕切っている藤乃の声だ。
古参の老女は、母の実家から嫁入りに付いて来て以来ずっと、足立家に仕えている。
渡り廊下をゆく琴絵の、小袖の裾をひいた優雅な姿がどこか寂し気な錦絵のようだと藤乃は思った。
大奥から永のお暇を頂いて運命が変わった娘は、なにもお吟ばかりでは無い。
琴絵さまもまた、世の荒波に飲み込まれる寸前だったのである。
大奥で御目見え以上のお役に付いていた直参旗本の娘には、その美貌もあってか降るように縁談が持ち込まれていた。どの縁談をとっても、大身旗本の御家柄ばかり。
「琴絵よ、どれに居たそうかのぉ」
縁談話を書いた紙を座敷に並べて、父の足立勘九郎信政が顔をほころばせた。
琴絵の生家は直参の大身旗本とは言え、千石取りのそこそこの御家。大勢の大身旗本たちの一団の、隅の方に位置している。
然も祖父の代から、無役の憂き目にあっていた。お役に付かぬ旗本の暮らし向きは、楽ではない。
何処に縁を結んでも、足立の家の助けとなる縁談ばかりだと、父が大喜びして居るのが手に取るように分かる。
だが当の琴絵は、何処に嫁いでも同じだと思っていた。
ほとんど売り物に近い我が身だ。
十六歳で大奥に召し出された時も。何の感慨も無く、唯々諾々と父の希望に従った。
今度もまた、きっとそうなる。
「御父上様の御心のままになさって下さりませ。琴絵はお言葉に従いまする」
父が望んでいる答えを返しておいた。
もう直ぐ叔父の松平佐渡守が遣って来て、輿入れ先を決めることに為っている。
本家の当主で三千石取りの大身旗本の叔父には、誰も逆らえない。
叔父が選んだ家が、これからの琴絵の生きていく家。恋も愛も、もうずっと前から諦めている。
大奥では月光院様の駒、実家では家の格を上げる為の道具。
溜息しか出ない。
自室に下がると、大奥での日々にまた思いをはせた。別に懐かしくは無いが、それでも独立した人生だった。
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