第1章 シークレットメモリーへの旅立ち

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第1章 シークレットメモリーへの旅立ち

決意の朝  トントントン、藤川紫織(ふじかわしおり)の母が忙しく包丁を動かしている。  いかにも、これから暑くなりそうな初夏の日の朝だ。紫織は、大学三年の夏休みを迎えたところだ。彼女が家を出ようとすると 「あら、早いのね。お味噌汁だけでも飲んでいったら?」 と、声をかけてきた。 「ううん、少し走ってからにする。すぐ戻る」 お気に入りの、蛍光グリーンの鮮やかなデザインのシューズの紐を、ぎゅうぎゅう引っ張り上げながら応えた。本当は母と一緒にいるのが苦しく、そんな自分にも嫌気がさしている。靴紐を結ぶ時にも、自分を痛めつけたいような気持ちでいた。  白いランニングキャップをかぶり、(つや)やかなロングヘアーを耳にかけた。エメラルドグリーンのTシャツや、上品な白いラインで縁取られている、黒い短パンをスラリと着こなすさまは、彼女の清楚な美しさを際立たせ、よく似合っていた。 「行ってきます」 誰に言っているのか、紫織の母に言っている割には小さく、独り言にしては、やや強めの声を吐き捨てるようにしてドアを開けた。  まぶしい朝の光がパッと彼女の体の表面を照らす。心の中にある深い闇には届かない真夏の光線が体温を上げてゆく。いつもの自然な風景が目の前に映し出される。近所の、玄関掃除をしているおばさんや、犬の散歩のおじさんたちに 「おはよう。きょうも、よく晴れたねえ」 などと声をかけられる。 「おはようございます、ほんとですねえ」 と、紫織も棒読みにならないほどに、少しだけ抑揚をつけて返事をする。  優しい母、平和な日常、でも彼女の心の中には恐ろしい闇がある……。
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