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第1話 再会の葬式
――東京都新宿区歌舞伎町。
そこから少し離れたビルの屋上から街を見下ろしている男がいた。
背が高く、鍛え抜かれた体には上下黒のスーツを着ていて、その顔は無表情で何を考えているのかわからない。
今夜は強い風が吹く日だった。
吹きつける風が、その無表情の男の短い髪の毛とジャケットがヨットの帆のようにはためく。
歌舞伎町から流れてくる風が、無表情の男の体に纏わりつき、地上へと引きずり込もうとする。
だが、男は変わらず無表情のままだった。
少しでも足を踏み外せば地上へと真っ逆さまだというのに、彼の顔には一切の恐怖心がない。
ただ下にある欲望渦巻く街を、これから戦に挑む将軍のような視線で見ている。
「……ジョージ·オーウェルは言った。生きるためにはしばしば戦わなければならないし、戦うためには手を汚さなければならない。戦争は悪だが、ときにはもっと大きな悪もある。剣を執る者は剣によって滅びるが、剣を執らない者は業病で滅びる」
男は静かに呟き、さらに独り言を続ける。
「同じ滅びるなら、俺は剣を執る」
新宿区歌舞伎町からは、パトカーのサイレンの音が微かに聞こえていた。
パトライトの照明が歌舞伎町を走っていくのが見える。
無表情の男の名は、福富優一。
白井不動産株式会社――新宿支社の支社長に就任したばかりの男だ。
――ひょっとして、緊張しているのか俺は?
あいつと久しぶりに会うことを……。
「……柄にもないな」
福富は微かに口角を上げ、見下ろしていた街から背を向けた。
そして、ジャケットの上からでもわかる太い腕をズボンのポケットにしまうと、そのままその場から去っていった。
――なんか玉手箱でも開けた気分だ。
浦島太郎ってこんな気持ちだったのかな……。
小柄で前髪で顔が隠れている男が歌舞伎町の街を歩いていた。
しばらく海外にいた彼は、久しぶりの東京に辟易していた。
淀んだ空気、下品な笑い声――。
そして、道行く人の鬱屈とした表情。
その光景を見た男は、マクシム·ゴーリキーの作品『どん底』を思い出した。
木賃宿でのホームレスの暮らし――。
酔っ払い、娼婦、犯罪者――まさにタイトルと同じくどん底まで落ちぶれている人物たちの物語だ。
だが、こんな状況でも『どん底』登場人物たちは、人間として、哲学的な議論を戦わす時間と場所を見つける。
例えば、この作品の中心をなすジレンマ――真実と希望のどちらがより大切か――といった問題についてなどだ。
男は自分はどうだろうかと考えていたが――。
「ダメだな……またおかしなこと考えてるよ、俺は……」
故郷から逃げた男は、再び日本へと戻った。
いや、以前と同じように逃げ帰ったと言ったほうが正しいだろう。
男はふと立ち止まり、そこにあった路地裏へと目を向けた。
ブツブツと呻いている男が、1人で泣いているように地面に横になっている。
その路地裏にいるのは、酔っ払いなのか、路上生活者なのか、それとも前髪が長い男のように人生に敗れた者なのか――。
夜の歌舞伎町の煌びやかなネオンが、そこで倒れている者をさらに惨めに映す。
前髪が長い男がまだその路地裏を見つめていると、急に誰かとぶつかった。
男はすぐに頭を下げた。
そして、通り過ぎようとしたが、突然力任せに胸ぐらを掴まれる。
「おい、てめぇ。どこ歩いて見てんだよ」
男とぶつかったのは柄の悪いチンピラ風の若者だった。
しかも3人――いや4人もいるちょっとした集団だ。
男は再び頭を下げたが、柄の悪い若者はその手を離そうとはしない。
小柄な男1人に対して4人――。
若者たちからすれば、面白半分でからんでいるといった感じだろう
それにアルコールが入っているせいもあってか、気が大きくなっているのもあるのだろう、柄の悪い若者たちは男に罵声を浴びせてニヤニヤと笑っていた。
「すみません……勘弁してください……」
男はただ謝った。
こちらが1人に対して向こうは集団だ。
それが合理的で理知的な解決方法と言えるだろう。
「へへ、情けねえ奴だな」
「おい、そんなガリガリなんて放っておいて早くヌキに行こうぜ。俺は店へ行くのが久しぶりなんだよ」
柄の悪い若者たちは、自分たちが望む男の態度――。
怯える姿を見れたことに満足したのか、掴んでいた手を離してその場を去っていった。
――これでいいんだ、これで……。
前髪の長い男は再び歩き出した。
そして、彼は顔をあげて夜空を見上げる。
――俺は普通に暮らすんだ。
暴力なんてない平穏な植物のような生活をするんだ。
この小柄で前髪の長い男の名は、東憲博。
かつて、裏社会の住人たちから恐れられ、ついには都市伝説となった男である。
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