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僕が高校一年の年の、正月が開けてすぐ、平成が始まった。
昭和天皇の崩御。
あの時、日本中を包んだ独特の雰囲気を今でも覚えている。
当時、16歳の僕にはピンとこない所はあったが、日本という国から、大きな柱が抜けたような、沈痛な寄る辺のない気持ちが漂っていた。
その一方で、天皇崩御のニュースの明け暮れるテレビに嫌気がさし、ビデオ店に列をなし、あるいはテレビゲームで暇を紛らわす、シビアな日常感。
あの温度差は、平成の僕たちへと繋がっているかもしれない。
昭和と平成。
それは連綿と続く日々の、昨日と今日にすぎないのに、そこには、確かに質感の違いみたいなものがあると思う。
僕が青春を過ごした平成という期間は、空虚にささくれて、成熟しない豊かさがあった。
決して、順風満帆な時代ではなかった。
いつの時代だって、順風満帆なことなんてないのかもしれないけれど、バブルのはじけた後始末を背負わされた重苦しさは、未だに引きずっているように思う。
平成は、始まってしばらくで、絶頂から叩き落されたのだ。
それを根性でひっくり返して、みんなで同じ方向を向いて全力で駆ける熱さを、僕らは持ち合わせていない。
団塊の世代と呼ばれる僕らの親は、俺たちが時代を作った、なんて言うかもしれないけれど、僕らにとっては、時代は波乗りみたいなもので、流れに上手く乗れればラッキー、といったところだ。
僕らは、未来に過大な期待は持たない。
どんなにがんばったところでたかが知れたものだと、空虚さを抱えながら、デフレだ、不況だと言われる世の中をなんとか持たせてきたのだ。
それでも、低迷しつつも、僕らの国は、依然経済大国だ。
追いつけ、追い越せと、がむしゃらになれた昭和世代を少しうらやましく思う。
僕らは、彼らが積み上げた砂山を、ぽろぽろと崩れはじめたところから、砂を補修していく。そんなことを、ずっと続けている気がする。
次の世代は、そんな砂山は見向きもしないで、新たな山を築き始めるかもしれない。あるいは、今度は穴を掘ったりするやつが出てくるかもしれない。
もう昭和は、はるか遠くに霞んでしまうだろうか。
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