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その後、テレビはこの事件の報道一色になり、宗教団体によるテロ事件であることが判明し、その本部に強制捜査が入り、教祖以下幹部が逮捕される。
この事件に関わった幹部たちには、僕とそう年の変わらない、優秀な若者たちがいた。
報道で聞く、教団の現実離れした考え方や彼らの使う宗教的な名前や言葉に違和感がありつつも、何かを求めて教団へ寄り集まった人たちに、僕は共鳴を感じないではなかった。
僕らは、自分が立つ足場を、ふらふらと漂わないためのアンカーを、求めていた。
30代の頃、2年ほど、仕事でアメリカに滞在した。
そこで出会ったアメリカ人は、国だったり、宗教だったり、家族だったり、何かしら、自分のファンダメンタルを持っていた。
それを感じた時、僕は、僕の国がふわふわと定まらない砂上の楼閣のように感じ、おそらく教団にそれを求めた彼らのことを思い出した。
僕らは、ファンダメンタルを失ったまま、そんなものがあることも、失ったことも忘れて生きている。
ふわふわと漂うように生きている。
こんなことを考えたと、あの時テロ事件を一つのベッドで布団に包まりながら聞いた彼女に話したら、悲観的なロマンチストだと笑われた。
彼女も、仕事柄海外を訪れることが多いが、そんなものを自分の外に求めなくても、ふらふらせずに生きている人は日本にも海外にもたくさんいるという。
僕は、彼女に同意できない。
この話をしたときは、僕たちは付き合っていなくて、彼女の新しい彼氏ののろけ話を聞かされた後で、僕はあまり素直に彼女の話を聞けなかったからかもしれない。
僕たちは、別れても、たまに食事をしたり、一緒に出掛けたりする。
付き合っている間も、お互い忙しく、それほど頻繁に会わないから、違いといえば、セックスをするか、しないか、くらいかもしれない。
どちらにしても、僕は、あの事件以降、僕のファンダメンタルについて、ときどき考えるようになった。
僕だけじゃなく、あの事件は、何かしら僕らの世代に引っ掛かりを残していると思う。
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