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終わりへの始まり――開幕
両親とその友人である男性の会話に起こされ、月明かりを頼りにリビングへ向かう。ゆっくりと部屋のドアノブを回転させ、押すと軋む音が廊下に響き渡った。冷やっとしながらも忍び足で声のする方へと歩く。
リビングのドアから光が漏れ出している。そこから中を覗くと不穏な空気が流れていた。両親とその友人が何を話しているのか聞き取れなかったが、様子がおかしいことは確かだ。いつも穏やかな両親は怒鳴っている。
友人は眉間に皺を寄せた両親を挑発するようなにやけた表情でナイフを構えていた。ナイフを見た僕は怖くて震え、動けなくなる。警察を呼ぶという発想はなく、両親がこの状況をどうにかしてくれると思ってしまった。
両親と友人はお互いを睨み合っていて動こうとしない。そのせいで時計の針がゆっくりと動く音がいつも以上に響く。張り詰めた空気が神経をとがらせ、緊張を呼び覚ます。
この硬直した状況をどうにかしようと父が母を後ろへ下がるよう指示する。そして、友人へ飛びかかり、押さえつけようとする。
刹那、フローリングは鮮やかな赤い絵の具が飛び散るように汚れ、低く恨みのこもった呻き声が家の中を駆け巡った。僕は何が起こったのか理解したくなかった。しかし、その場面は脳裏にしっかりと張り付く。
父のお腹に刺さったナイフ。友人は痛めつけるようにそれをぐりぐりと掻き回し、思い切り引き抜く。友人の体は返り血で赤く染まり、友人の姿は僕が知っている人と全くの別人に見えた。
その間に母が絶叫しながら台所へ走る。そこから取り出したのは鋭く光る凶器。友人に向かって一直線に向かって行く母を嘲笑い、瀕死の父を盾にする。そして、母にとどめを譲ったのだった。父は立つ力を失い、その場に倒れ込んでしまう。
怖くて声が出ない。これが現実なのかもわからないし、僕も死ぬのではないかと思ってしまい、鮮やかで美しい景色はだんだんと色褪せていく。漸次恐怖に優しく包み込まれるように。
母は最も愛する人を殺めて相当のショックを受けたのだろうか、魂が抜けて空っぽになってしまった死体を抱きしめ、呆然としている。その隙に背後に忍び寄る影。僕はこの後の展開を悟ってしまった。
やめて! と心の中で繰り返しても口から出るのは荒い呼吸だけ。母と影が横側からはっきりと視界に映る。それ以外は何も映らない。光り輝くナイフが振り上げられ、母の背中に向かって急降下。勢いよく母の背中に突き刺さる。痛みも忘れてしまったのか、叫び声を上げることはなかった。頬の輝きも虚しく、命の灯火は風のように消える。
この一部始終を見てしまった僕は完全に恐怖に支配された。嘔吐感に見舞われ、廊下に晩ご飯の一部を吐き、気持ち悪いし、めまいがする。それから絶望という窮地に来てしまったことを思い知り、何もかもが無駄に思えてきた。
両親との思い出や約束が全て泡となり弾けて消える感覚に耐えきれず、涙が溢れる。鼻水も垂れてきたが、そんなことはどうでもよかった。
やることをやり終えた様子で影は荒くナイフを引き抜く。それと同時に鮮血が辺り一帯を染める。その色が赤だったのか、黒だったのか、全てがモノクロに見えていた僕には判別できなかった。その時殺人鬼が見せた『笑顔』だけははっきりと脳裏に刻まれた。
次は僕が殺される。
ここから逃げなければならない。慌ただしく玄関の戸を開き、滲む街をひたすら走った。それから何があったのか一切覚えていない。いや、思い出したくないだけなのかもしれない。
目を覚ますと車の座席で横になっていた。左頰に感じる滑らかな感触と鼻を微かに刺激する香水に違和感を覚え、起き上がる。すると、そこには女性が座っていた。
「おはよう。具合は大丈夫?」
20代後半くらいの女性が問う。その質問と同時に車のエンジン音がとまった。
「うん」
返事をしながら目をこすった。辺りを見渡すと知らない場所にいた。だんだんと不安が込み上げてくる。昨日の夜中の出来事も思い出した。両親が死んだ。あれは、夢? 鮮明に残った映像が脳裏に浮かぶ。そうだ、きっと悪い夢を見ていたのだ、そうに違いないと言い聞かせる。
「ここはどこ?」
「ここは児童園、啓太くんの新しいお家だよ。お友達もたくさんいるから楽しいよ」
そう言って彼女は車から降り、僕に手招きをする。外へ出ると想像以上に寒く、思わず腕を擦った。目の前の建物から子供の声が聞こえ、不安が和らいだ。招かれるがまま建物へ入った。庭にはいくつかの遊具が設置されており、ワクワクが止まらない。
校舎の中に入ると、別の女性が出迎えてくれた。
「はじめまして啓太くん。今日からよろしくね」
その女性はさっきまでの女性に代わってオープンスペースまで案内してくれた。そこにはたくさんの子供が列を作って座っていて、どの子も物珍しそうに僕を見つめている。
「ほら、おいで」
先生に笑顔で手招きされ、集団の前に立つ。
「自己紹介してごらん」
「えっと……和田 啓太です。好きな動物は猫です。よろしくお願いします」
同い年くらいの子達が笑顔を向ける。上手く自己紹介できたなと胸を撫で下ろした。
「じゃあみんな、啓太くんと仲良くしてね! じゃあ、これで朝の会は終わり」
そう言い終わると列を崩して子供達がたくさん集まってきて
「遊ぼーぜ!」
「おままごとしよ!」
「おままごとより鬼ごっこやろう!」
と口々に言う。
「ちょ、ちょっと……」
頭をかき混ぜられ、動揺していると、腕を掴まれて無理矢理鬼ごっこ組に連行される。別に運動が苦手でも、鬼ごっこが嫌いというわけでもなかったので抵抗はしなかった。外に連れ出されると僕を合わせた4人でジャンケンして、勝った僕は一目散に逃げる。
滑り台、ブランコ、ジャングルジムがあり、滑り台に上った。すると、鬼も滑り台の階段を駆け上がってきたので、急いで滑り台を降りてジャングルジムへ向かう。そこにいた他の参加者を巻き込んで逃げ続ける。疲れと寒さを忘れて走り続けた。楽しい時間はあっという間に過ぎた。
「そろそろ昼食の時間だから部屋に戻って」
先生が呼びかける。
「はーい!」
元気な返事をした。友達に案内されて給食室に入るとカレーのいい匂いがし、お腹が鳴る。美味しそうなカレーに目を輝かせながら欲望を抑えるので精一杯。両親が居なくなった悲しみを忘れ、ここでの生活に慣れることができると思っていた。
給食室は椅子と長テーブルがあるだけのシンプルなデザインで、先生用のテーブルに食缶が置かれている。手を洗って食器にカレーを入れた。ニンジン、玉ねぎ、じゃがいも、豚肉などの具材が見え隠れしている。
喉の奥によだれが溜まってしまったので、大きな音を立てながら勢いよく飲み込む。席に着いてうずうずしている口と腕を宥める。
「みんな席に着いたね? それじゃあいただきます!」
幼稚園から中学3年まで計17人の生徒全員が席に座ると号令がかかった。その中で小学2年の子は僕を含めて男子3人に女子2人の計5人のようで、同じテーブルの椅子に座っている。
「いただきます!」
その合図と共に鳴り出した皿とスプーンが擦れ合う音が給食室を騒がしくする。
「――おかわり!」
開始わずか3分。 口に付いたカレーを気にも留めることなく、1番に食べ終わった上級生の1人が叫ぶ。そして、カレーとデザートであるフルーツポンチを皿に入れていった。それに続き、空っぽの皿を持った子供が次々と食缶に集まる。
どうしても自分もおかわりしたくなった。それで焦りが出る。僕が食べ終わる頃には1人分しか残っていなかった。それなのに目の前におかわりを待つ人がいる。歳は同じくらいに見えるが、体格が僕より一回り大きく喧嘩したら余裕で負けるだろう。
「よーし、ジャンケンで決めるか」
「いいよ」
僕は頷き、手を構える。理由は無いけど勝ちたかった。
「最初はグー、ジャンケンポン!」
その合図と同時に出された手の形は同じだった。気迫を詰め込んで拳を作り直す。そして……。
「あいこでしょ!」
僕はチョキで相手はパー。見事勝利を収め、おかわりできる権利を得たのは僕であった。しかし、相手の方は悔しがるどころか喜び出した。
「やったー! じゃ、もらうぜ」
そう言って彼は自分の皿にデザートのフルーツポンチを盛り付け始めた。
「え、僕が勝ったのに……?」
僕は不満を口にしながら睨みつけた。
「は? 俺が勝ったんだろうが。何嘘ついてんだよ! なぁ、俺が勝ったんだよな」
たまたま通りかかった男子に威圧するような口調で問いかけた。その通りかかった男子は、給食室に入って来たばかりでジャンケンの様子など見ているはずがない。
「あ、あぁ、うん」
威圧に負けたのだろうか。彼は嘘をつく。ここで下手に抗ったらどうなるのか想像出来た。先生に訴えても勝ち目は無いし、いじめられる可能性だってある。そんな考えが電光石火の速さで脳内を巡った。抵抗の無意味さを理解する。それと同時に抵抗する事がいかに醜い行動であるかも知ってしまったのだ。
たかがおかわりのためにインチキをするなんて醜い。こんなことでムキになる必要はない。一応、みんな均等にデザートを与えられているのだ。それ以上を望むことすらおかしいのかもしれない。
「ごめんね。見間違えたみたい」
そう言い残して退いた。心の奥底にしまっていた記憶が蘇る。昨日の夜殺された父と母、それから殺人鬼の笑顔が現実であることを思い出してしまった。何故、嫌な記憶を掘り起こしたかは自分でもわからない。
他人なんて信じてはいけないのだ。あんなに優しく接していた両親の友人だとしても、簡単に裏切る。友達なんていなくても生きていける。だったら友達を作らなくてもいいじゃないか。下手に希望を持って絶望するよりはマシだ。脳が暴走を始め、負の感情が溢れているのがわかる。
仕方なく自分の席に戻り、座っていると先生が声をかけてきた。
「あ、そうだ。啓太くんの部屋は105号室。ルームメイトは孝くんだから仲良くしてね」
「わかりました。ありがとうございます」
やることもないので、部屋に行こうと思い、廊下へ出た。1階の一番奥の方に105号室はあり、さっそく中へ入ってみる。
中は机と布団が2つずつあるだけ。それと、さっき嘘をついた男子がいた。確か、彼は同じテーブルで食事をしていたはず。ということは同じ小学2年生ということだ。彼は申し訳なさそうにこちらの様子を伺う。しかし、話しかけてくることは無かった。気まずかったのか、謝罪の気持ちがないのか。どちらにせよ、他人なんて信用できない。
入浴時間を知らせるアラームが鳴り風呂場へ向かった。お風呂場は小さな個室が5つあるだけ。そこで体をさっさと洗って水を拭き取って髪を乾かし、部屋に戻った。お風呂が終わると次は勉強の時間。勉強といっても遊ぶやつは遊ぶ。
僕はつい数日前に両親に大事な話をされたばかりだった。最近法律が変わり、成績が低ければ肉体労働しかできないと聞いた。
父さんがやっていたような力仕事は見ているだけでも疲れる。だから、たくさん勉強して、たくさん本を読んで、賢くなるのだ。
次は就寝時間を知らせるアラームが鳴ると本を閉じ、布団の上に倒れた。ルームメイトの男子……孝は他の友達と遊ぶため出て行ったきりだ。電気を消して1人眠りにつこうとした時、部屋のドアが開き、ルームメイトが帰ってきた。彼も自分の布団に潜り、僕に向かって
「おやすみ」
と言ってきたが、無視した。完全に彼と関わらないよう努めるつもりだ。
***
転校したことをきっかけにその日から他人とは必要最低限の関わりしか持たず、1人で本の中に引き篭もった。男子が鬼ごっこに誘ってきても、女子がままごと遊びに誘ってきたとしても断る。そんな事を続けると自然と誰も近寄ってくることはなくなった。
完全なる孤独を築き上げ、周りから蔑んだ目を向けられる。そんな苦痛でしかない生活がずっと続いた。でも、誰かを信用して裏切られた時の絶望を味わうよりはマシだと思う。
授業は真面目に取り組んで発表もそこそこするし、グループ活動の時はクラスメイトの人と普通に接する。運動会や学芸会では自分の役割に集中し、周りとの連携は避けた。和田啓太はそういう人なんだ、という認識が広まり、僕は空気のような存在になった。
自分で言うのも変ではあるが、成績優秀で真面目だ。趣味は読書。と言っても読書なんて現実逃避のためであって、好きというわけではない。とにかく他の事に集中していないと自分を保てなくなりそうで怖い。
それだけではない。何かに集中していないと考えてしまうのだ。『僕は何のために生まれ、生きているのだろう』と。僕には人生の目標が無い。夢が無い。楽しみも心から喜べるような出来事も無い。そして、両親もいない。
僕には何があるのだろうか。
馬鹿馬鹿しい人生を送り始めておよそ4年が経った。僕は小学校6年生になってある本を読んだ。その本の主人公は周囲の人と距離を置いて自分の非凡さを隠そうとした結果、凶暴な猛獣になってしまう。このままでは自分も異類の身となるのではないかと思い始めた。
もしもこの状況が続けば僕はまともにコミュニケーションを取ることが出来ず、社会に出てもクズ扱いされるだけ。そんな最悪の事態を避けたい。いや、ただ単に友達が欲しいだけなのかもしれない。
どちらにせよ現状を打開しなければならない。そういう使命感が湧き出る。しかし、どうすればいいのか考えれば考えるほどわからなくなる。誰も信じたくないという気持ちとの矛盾を抱えて生きていた。
そんな時、授業参観日で親への日頃の感謝を伝えることになった。いつもの僕ならばなんとも思わなかっただろう。しかしこの時は違った。両親についていろいろ知りたくなったのだ。
どうして両親は殺されたのか。両親の友人は優しく、面白いジョークやボケで場を和ませるような面白い人であった。なのにどうして人殺しをしたのか。そして、両親はどんな風に騙されたのか。いや、本当に友達に騙されて殺されたのだろうか……と。
児童園にある先生の業務室を訪れ、僕たちの健康管理をしている松林(まつばやし)先生を呼んだ。
「何か用かい?」
そう言って出てきた松林先生が問う。松林先生は児童のメンタルケアもやっているため、僕の両親について知っていることがあるかもしれないと思ったのだ。
「すみません、僕の両親のことについて、何か知っていることはありませんか?」
「私は何も知らない。だけど、遺書のような物ならあるよ。少し前に『資料整理してたら出てきた』って未来機関の人が来ててね」
未来機関というのは一昔前の警察のようなものだ。警察と違う点は犯罪防止するところにある。なんでも、未来予知ができるとかなんとか……。
「それ、見せてもらえませんか?」
「もちろん。ちょうど渡そうと思ってたところだったから」
先生は一度業務室に戻り、少しすると茶封筒を持って帰ってきた。
「はい。部屋でゆっくり読むといいよ」
「ありがとうございます」
差し出した手のひらから封筒を受け取って一礼した。言われた通り部屋に戻って中を覗いてみるとそこには二枚の紙切れがあり、それぞれ文章が書かれていた。
啓太へ
たとえどんなに苦しくても前を向いてしっかり歩く事。私たちはいつでもあなたを応援しているからね。
普段から良い行いを心がけてね。そしたらきっと見返りがあるはずだから。巡り巡って帰ってくるはずだからね。友達を大切にして。友達がいないならそれはそれでいい。無理に作る必要も無い。
だからと言ってずっと1人でいるわけにはいかないはずだし、悩みができたり不安になったりする。そんな時に頼れるような人と仲良くなるといいね。くれぐれもヤンキーとお友達にならないように。あと、勉強しっかりやって、将来、お金に困らないようにしなさいね。
短くてごめんなさい。時間がなくて、このくらいしか書けなかったの。本当はもっと言いたいことがあるけど、啓太なら大丈夫って信じてるから。悔いのない日々を過ごしてね。
母より
おまえは絶対に成功する。だからいろんな事に挑戦するんだ。失敗してもいい。その失敗から反省点を見つけ、再チャレンジするんだ。もちろん悪い事はするなよ。俺と母さんには頼れる親戚がいないから児童園で生活しているかもしれない。孤独と戦っているかもしれない。
強く生きろ。そして、周りを大切にしろ。怖いなら逃げたっていい。誰かを頼ったっていい。だって人間だもんな。支え合って生きるのが当然だ。俺だって1人じゃ乗り越えられなかった壁がたくさんあった。でも、支えてくれる仲間がいたから乗り切れた。
人間、1人じゃ生きていけないし、自分より強い人だってたくさんいる。命は1つしか無い。人生も一度しか無い。絶対に無駄にするなよ。それだけだ。
父より
胸がじんわりと熱くなった。やけに染みる言葉は僕の知らない『何か』があったのだろう。それよりもこんなに的確な文章が残っているなんて信じられ無い。親の気持ちを知ると見えない物が見えてきた。まるで、両親が目の前にいるような気持ちだ。
短すぎる文に物足りなさを感じながらも目の前がぼやけていくのがわかった。手紙が濡れる前に涙を拭う。
「お父さん、お母さん……」
昔の記憶を掘り返し、思い出に浸りながら手紙を閉じた。今、ルームメイトの孝は外出中だったおかげで恥ずかしい思いをせずに済んだ。
気持ちが落ち着き、自分はこれからどうすべきか考えた。しかし、簡単に答えが見つかるはずもなかった。とりあえずいつも通り過ごし、なんらかのチャンスがあれば友達を作るのもありなんじゃないかと思う。いや、ただただ友達を作る口実にしたかっただけかもしれない。
手元から何かが落ちた。それは家族3人の集合写真である。僕は両親に挟まれており、一階建ての自宅をバックにしたところを写されていた。僕も両親も満面の笑みを浮かべている。記憶が溢れて処理しきれない。一つ一つ整理して感傷に浸った。
表現出来ないこの気持ちを誰かと共有して幸せを感じながら生きていた頃が懐かしくて、羨ましくて、切なくもある。過去の自分に嫉妬するなんておかしい話だと思う。
じっと写真を眺めていると、左下に何か書かれているのがわかった。『ソノミ6丁目**』と住所が書かれている。もしかしたらそこが僕の元々住んでいた家の場所なのかもしれないと思った。行ってみる価値はある。
位置的には児童園から結構離れているし、僕の通う丘ノ小学校とは別の小学校に区分されている場所だ。歩いて30分近くかかって家へ着いた。
そこに僕の知っている家は無く、改装された二階建ての建物があるだけだ。だが、そこで過ごした幸せな日々が蘇り、思い出を通してたくさんの感情や感覚が目まぐるしく脳内を駆け回る。
暑くて眩しい太陽の下で海へ遊びに連れてってもらったこと、近くにある遊園地へ行ったが、お目当てのショーが中止になっていて僕が泣きじゃくったこと、景色の綺麗な高台へ登ったこと、それがとても綺麗な夕日で両親との最後の思い出ということ。
胸の一点に僕の過去が吸い寄せられ、凝縮していく。喜び、怒り、哀しい、楽しい。こんな小さな体にそんなたくさんの物が入っているのだ。それだけじゃない、もし僕の両親がまだ生きていたならもっとたくさんの始めてを知り、過去だけでなく未来という存在からも何か新しい物を得られていた気がする。
街を覆い尽くすような多くの『もしも』が溢れ出す。それと同時に両親の友人が憎く思えてきた。その矛先は行き場を失い戦意喪失するだけ。虚しくて、そっと元自宅の建物に背を向けた。
いつも通りみんなより少し遅めの起床。でも、昨晩の内に学校の準備を終わらしていたおかげで急ぐことはなかった。外に出ると息が微かに見える。今日はいつもに増して寒い。太陽は雲に隠れてみんなに意地悪をしていた。風が吹くたびに震えてしまう。
児童園から学校までは徒歩なら10分程度で着く。通学路には頭の悪そうなやつらが騒ぎ立てていた。秋休みを終えた児童達のテンションが狂い始め、謎の我慢勝負が流行り始めたのだ。
雪は降ってないが、最低気温は3°の予報。なのに男子は薄い長袖一枚だったり、半袖だったりと見ていて怖い。しかし、頭がおかしくなったのは男子だけではなかったと知るのはもう少し後のことだ。
校門を抜けて校舎に入る。自分の靴箱にある上履きと靴を交換して教室へ向かった。学校は新館と旧館に分かれていて、新館には主に職員室と5、6年生の教室があり、旧館には1〜4年生の教室と多目的教室が並んでいる。そして、僕は6年3組のある3階へ足を進めている。
5年生まではずっと1、2階の教室だったのに6年生になって急に3階になった。そのせいで慣れないうちは遅刻しそうになったことがいくらかある。鐘が鳴る数秒前に教室に入り席に着く。先生も来て朝の挨拶をする。そして、何気無い日常が始まった。
午前中の授業と給食時間が終わって掃除の担当区である花壇へ向かう。騒がしい廊下を抜け、靴に履き替えた。外に出ると、冷風がお出迎えしてくれる。鼻をすする音が隣を通り過ぎて元気よく走って行くのを見送ると、大きな雲に覆われた空を見上げた。
掃除時間の開始を知らせるチャイムが鳴ったにも関わらず遊び呆ける人が何人か伺える。それに比例して注意し、真面目にやる人もいた。運動場と体育館の間に咲いている花の水やり、周りに落ちている落ち葉などを片付けることが僕の仕事だ。
今日もいつものように1人きりの作業を開始しようとした。同じグループの人たちは男女問わず教室や廊下で暴れ回っている。いつものことだし、注意しても掃除するとは思えない。
「はははっ! ほらほら!」
「さすが、我慢強いね! ははっ!」
ありえない光景を目の当たりにする。それは、人間の惨めさを酷く語っていた。いつもなら自分のことばかりで他人が何をしようと、他人に何が起きようと気に留めることはない。しかし、今は違った。
歯を食いしばって、堪える少女を取り囲むように男子3名、女子2名の計5人の生徒が群がっている。その中の坊主頭の男子が水の溢れるホースを少女へ向けていた。少女は全身ずぶ濡れ状態。
「何やってんだ!」
あまりの異常さに思わず叫んだ。日頃からこんな酷いいじめがあったなんて知らなかった。だから異常だと思ったが、周りの人たちからすれば普通だったのかもしれない。
「我慢比べだよ。見てわかるだろ。ああ、おまえも我慢比べしたいのか。だってよみんな!」
集団の中でもひときわ大きな体格をした男子がこちらに意識を置く。すると、全員の視線がこちらに集まる。
「い、いや、違うんだ。そういうわけじゃ……」
これはまずい。僕までいじめの標的にされてしまう。と思い、一所懸命に首を横に振って否定した。
「なーんだ。つまんねーやつだ」
坊主頭の男子がつまらなさそうに呟き、「そうだな」と同意しながらみんなの視線は元に戻る。安堵に包まれ、この場を離れようとした。
敵を作るのが怖い。だから、だから今回は……。
冷水の弾ける音が延々と響き、とても見るに耐えない。しかし、いじめの標的にされるのは嫌だ。
でも……。
「なぁ、我慢比べなんてやって楽しい? 彼女が辛い思いするだけだからやめた方がいいと思うけど」
思考が行ったり来たりを繰り返した結果、穏やかに事を収めようと試みた。短時間で考えた割には良い策だなと自画自賛出来る。
「こいつは我慢するのが好きなんだってさ。だからやってんだよ」
「そうだよ、そうでなきゃこんなことやんないよ。それにいつものことですし」
ポニーテールの女子と眼鏡の女子が反論する。作戦は失敗に終わった。
「おまえさ、ウザいんだよ。用が無いならとっとと消えろ」
「……」
体格の大きい男子がイラついたような顔でこちらを見下ろす。僕が黙り込んで数秒間、少女への水撃はとまった。震えているにも関わらず、まだ水を浴びる少女。逃げればいいのに……。
短く清潔感のある髪からは水滴が落ち、目からは冷水とは違う何かが溢れているような気がする。彼女が瞼を開くと、冷静かつ優しそうな瞳がその姿を現した。よく見るとわかった。あれは泣いているのだ。完全に泣いている。しかし、そこには強さがあった。言葉では言い表せないが、心を動かす何かがある。
坊主は思い出したように少女へホースの口を向け直した。知らない誰かがいじめを受けている。彼女を助けたとしてもまたイジメられるかもしれない。それだけではない。標的に僕も追加される可能性もある。
もしかしたら彼女は性悪だからイジメられてるのかもしれない。何かしら恨みを持たれていじめられているのかもしれない。こんな大きなリスクを背負ってまで助ける必要はあるのだろうか。
風が吹いて花が揺れた。それと同時に「寒っ!」という声が後ろから聞こえる。彼女はどれほど寒いだろうか。きっと、僕の感じている温度と天と地の差があるだろう。
『勇気を出して一歩踏み出してみて。それだけであなたの未来も変わるかもしれない』
『今、おまえの力を必要としてる人がいる。ならどうするか、考えてみろ』
両親の声が聞こえたような気がした。手紙に書かれていた内容も思い出す。助けたとしても見返りなんて求めちゃいけないと強く念を押す。どうせ友達付き合いとか無いし、恥とかプライドとかさっさと捨ててしまえば楽になれるだろうと思った。そんな心にも無い理由を添えて決意を固める。最後に平穏な学校生活へ別れを言う。
さようなら。僕の平和で孤独な学校生活。
「なぁ! やめろって言ってんだろ、このゴミ共! さっきから穏やかに解決しようとしてたらなんだ、言い訳ばっか。少しは恥を知れ!」
わざと荒く大きな声で叫び、静かな校庭を震わせる。彼らは計10個の攻撃的な眼差しを送ってきた。
「はー? おまえウザいな。こいつにもかけてあげようぜ」
体格の大きい男子が一番に反応する。
「そうだね、やっちゃお。ムカつく」
「ほんとに、偉そうな事言いやがって」
それに続いてポニーテールと目つきの悪いボサボサ頭が怒りをあらわにした。狙いが変更され、実行犯である坊主がホースの口を潰したままこちらに噴射してきた。容赦無く飛んでくる冷水が寒さに拍車をかける。僕は他の感情に押さえつけられる前に走り出していた。
「なっ」
坊主頭が驚きを隠せずに変な声を出す。ホースを奪い取るのに5秒もかからなかった。女子とか関係無い。いじめを見過ごして一緒になって楽しんでいたのだ。許さない。やられてる側の気持ちを直接教えてやるのが1番効果的だと思った。
いじめっ子に水をぶっかけると全員悲鳴を上げながら逃げて行く。逃走中の背中も濡らし、次々と服の色を変える。水が届かなくなるまで逃げられたので一息ついて蛇口を回した。
今頃になって耐えようにも耐えきれない寒さが心身を襲う。それから緊張から解放された時の脱力感があった。彼女もこんな思いだったのだ。否、もっと長く、じわりじわりと苦しんだのだ。そんな彼女の痛みなど僕が語ってはいけない。
「その……大丈夫?」
「うん。大丈夫。その……ありがとうござい、ます」
そう言って彼女は一礼する。相当寒かったのだろう、口も震え、声も途切れ途切れで、相当弱っている事がわかった。
とりあえず彼女の教室である6年1組へ行って体育着を持たせる。その後僕も着替えを持って一階にある保健室向かった。その途中、ビショビショに濡れた僕らを見て笑い者にするやつらがいた。
やはり人間とは悲しい生き物だ。困っている人を見下して優越感に浸って何が楽しいのか理解に苦しむ。もちろん、僕たちを心配してくれる優しい人もいた。そこで人それぞれ違うのだと実感する。きっと僕の運が悪いせいで勝手な偏見を持ってしまったのだろう。
保健室に着き、彼女をトイレで着替えるように言うと控えめに頷く。その間に僕も着替える。彼女が着替え終わってトイレから出てきた。彼女が寒そうにしていたので、僕の教室に置いていたジャンパーを着させた。「ありがとう」と言いながら彼女はジャンパーを着た。
サイズは丁度良い。たしかに僕は小柄だが、女子とあまり変わらないというのはさすがに恥ずかしい。暖房をつけてその前に椅子を用意して彼女を座らした。タオルで頭を拭く彼女に訊く。
「ねぇ、なんでいじめられていた時、逃げなかったの?」
「うーん、なんでって言われても……。逃げてもどうせいじめられるから。それに、あなたが助けてくれると思ったから」
どうして。その言葉が脳内を暴れ回る。赤の他人を信じるなんて僕には到底出来ない。もしかしたら彼女の期待を裏切り、いじめに参加する可能性だってあった。いや、いつもの僕は『見て見ぬ振り』といういじめをしていたのだ。なのに……。
「なんで僕を、全く知らない赤の他人を信じれたの?」
「あなたが最初に声をかけた時、助けたいって気持ちは伝わってきたよ? だから、あなたは私を助けてくれるって思った」
「ありがとう。こんな僕を信用してくれて」
嬉しかった。少し照れくさいという感情もある。彼女となら仲良く出来るような気がした。これはきっとチャンスである。本で得た知識を絞り出すため脳内会談を開く。どうやって仲良くなるか悩んだ末に出た結論は。
「僕、和田啓太って言うんだけど、君は?」
名前を聞き出すということだった。静かな保健室に男女2人きりの状況ということを意識した瞬間、心臓の動くスピードが速くなった。彼女に聞こえてないか心配するほどリズムを刻む音は速くなる一方。
今、どうして意識したのかわからない。しかし、そのままでは頭がおかしくなりそうだったので、気分を紛らわそうと部屋を見渡す。ベッド、カーテン、机、電灯、窓……。
「私は南原 亜子。よろしくね」
そう言って彼女は笑った。ふと我に帰り、外にあった目線を戻す。彼女の笑顔はさっきまでの『冷たい』という印象をぶち壊すほど可愛いかった。
大きくクリクリした垂れ目からは真珠のような瞳がこちらを覗く。健康的で柔らかそうな唇で、比較的小顔で小さな涙袋が彼女の良さを引き立てる。
「もし、良かったら……その、友達になってください!」
なんて言葉は喉に到達する前に胸の内に隠れてしまった。
「こちらこそ、よろしく」
この言葉の後に出来た沈黙の中、掃除時間の終わりを告げる放送が響く。それに反応して彼女が立ち上がる。
「今日はありがとう。じゃあ、またね」
細長くて綺麗な指を、見せつけるように揺らしながら保健室を出て行く。
「あ、うん、またね」
呆気にとられたまま無意識のうちに手を振り返す。彼女の背中を見届け、ドアが閉まる音と共に力が抜けた。ここまで緊張するのは初めてで、なかなかの喪失感が脳内を占領する。空に浮かぶ雲になった気分だ。
これが僕の始まり。終わりへの始まりなのだ。
今日はいじめという雪に埋もれていた南原さんを助けた日。そして彼女と初めて出会った日。僕の物語の開始地点なのだ。
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