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第1章〜小学校編〜
先生の起きてという声、暴れまわる男子の足音や叫び声などの騒がしさに起こされる。何一つ変わらない朝がやってきたのだ。ほんの数分で身支度を終えて朝食を摂る。そして学校へ向かった。
教室に入り、席に着くと前の席の男子生徒がこちらを向く。ツンツンした髪の毛とその笑顔は見慣れたものであった。
「おまえ、昨日見たよ! すげぇよな、あのいじめっ子で有名な熊雄に水かけるとか……俺には絶対出来ないな」
もしものことを想像した彼の顔は歪んだ。急に話しかけてくるのはいつものことで、その会話の内容は気まぐれ。天気の話や転校生の話、テストの話など様々。確か彼は関崎 友哉って名前だった。不思議な雰囲気と性格で掴みどころがない人だ。
熊雄があの5人の中の誰かは知らない。しかし、僕が危ない状況にあるということは理解出来る。
「まぁ、頑張れな」
そう言い残して彼は前に向き直る。こちらの話を聞く気は無いのかと思いながら僕は頬杖をつき、嫌がらせを受けたらどう対処するか考えた。しかし、学校は平和なまま放課後を迎えた。
だが油断は出来ない。なぜなら、忘れた頃にやってくるかもしれないからだ。廊下に待ち伏せしている可能性もあるため、慎重に戸の前まで来た。
「啓太、ちょっと職員室に来なさい」
少し怒り気味の声が教室から出ようとしていた僕の体を凍てつかせる。特徴的な野太い声のおかげで主はすぐにわかった。6年3組の担任である戸村先生だ。戸村先生はいつも不機嫌そうな顔なので怖いイメージがある。
外見も体育系教師みたいにがっしりしているのだが、稀に女っぽい口調になるのだ。大勢の人が不意打ちをくらったに違いない。
「あれのことじゃない?」
「絶対あれだ」
「だよね。あれだよね」
周りから聞こえてくるこれらはヒソヒソ話のつもりなのだろうか。羞恥というものを始めて知った。こんな公の場で呼び出す必要は無いのではないかと思う。不愉快に感じながらも仕方なく先生について行く。
暖房のついた暖かい職員室の中まで連れていかれ、机が並んでいない端っこのスペースに立っておくように指示される。そして先生はどっかへ行ってしまった。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。他の職員は僕のことを気にも留めない様子で黙々と仕事をしていた。多分昨日の出来事についてだろう。誰かが昨日の様子を見ていて、先生に伝えたと考えるのが妥当か。
もしも、僕が悪者と捉えられていたら南原さんを助けるためだとか、正当防衛だったなんて言い訳が通用するか心配だが、やってみる価値はある。数分もしないうちに戸村先生が戻って来た。その後ろには6年1組の担任である佐橋先生がいる。また、その隣には南原さんがいた。
時間が意識を置いてけぼりにする。あの南原さんをいじめていた5人のうち、1人もこの場に顔を見せる人はいなかった。それだけでなく、先生2人と南原さんが僕に向かって一列に並んだ。僕が説教されることは位置的に分かる。
あの5人組が嘘をでっち上げたという可能性を疑った。それ以外何があるだろう。彼女が僕を嵌(は)めたなんて考えたくもなかった。もしもあの光景を第三者が目の当たりにし、先生に言ったのなら亜子は被害者で、僕はそれを助けたという解釈になるはずだ。第三者が嘘をつく理由は無い。
なのに連れて来られたのは僕と南原さんだけ。先生たちの僕を見る目は明らかに罪人を裁く時の鋭さを持っている。無理解の地に立たされ、混沌の渦に飲み込また。
「では早速、話を始めたいと思います。啓太くん。あなたは亜子さんをいじめていたんですよね」
6年1組の担任である佐橋先生が先制攻撃を仕掛けてくる。この先生はとてつもなく真面目でカクカクした動作で有名な人だ。きっと、一つの矛盾が命取りとなる。
「僕はやってません。逆に南原さんがいじめられていたのを助けたんです!」
とりあえず真実を突きつける。正直、これを信じられないと言い出したら勝ち目はない。さすがに大丈夫だろうと高を括っていると予想だにしない言葉が返ってくる。
「まぁそう言うと思ってたわ。だって助けたことに『間違いは』無いからね」
「え?」
何が言いたいのかさっぱりわからない。だけどこれだけは言える。僕は負けた。暖房をつけているため職員室の窓は全て閉まっている。逃げ場なんて何処にも無かったのだ。僕はこの密室で確実に仕留められる良いカモだったのだ。
「話は熊雄くんたちから聞いたけどあなた、彼らに亜子さんをいじめるよう命令したのでしょう?」
「え、そんなことは……」
「彼らを脅して南原さんをいじめさせ、彼女を助けた」
僕はとっさに否定しようとしたのだが、佐橋先生は僕の言葉を遮るように話を続けた。
「だから、そんなことはやって……」
「私の予想だとあなた、南原さんのことが好きで、あなたはいじめから助けた英雄になりたかったんでしょう? 赤鬼と青鬼のやったような作戦を使って」
抵抗は無意味。まず聞く耳を持ってくれないし、反論する間も空けてくれない。
終わった。
僕は裏で全てを操っていた黒幕に仕立て上げられる。そしてみんな何も無かったかのように歩く。僕は汚れた過去を背負わされ進み続けるのだ。
もちろん、何も言い返せない程ズタズタにやられた僕を信じる人はいないだろう。あんなに信用した人が仕組んだいじめということを聞かされた南原さんだって絶望しているはずだ。かと言って諦めるわけにはいかない。
「そんな事はしていません! まず熊雄が誰かも知らないし、南原さんとも昨日初めて出会いました。いじめに関与していた人たちとも面識は無いんですよ?」
「嘘ならいくらでも言える」
さっきまで黙っていた戸村先生が口を開いた。それも、いつもにないほど恐ろしい低音で威圧的な声。普段ならば女っぽい口調になるようなセリフ。まぁ戸村先生が味方ではないのは想定内である。もとより勝率なんて無かった。
「戸村先生がおっしゃる通り、嘘をつくことなんて容易いことでしょう? 何より熊雄くんたちが『啓太君に命令された』って言ってたのよ。その脅している場面を見たと言う児童もいるの」
「……」
無言という降伏を選ぶ。負けを認めざるを得ない状況。これ以上足掻いても無意味であることは一目瞭然である。
「そ、そうだったの? 和田くんがいじめを命令したの?」
真相を確かめるため僕の方へ歩み寄る南原さん。首を横に振りたい、抵抗したい、否定したい、真実を知ってほしい。周りにいる2人の先生の圧力に耐えるだけでも息苦しい。
さらに彼女の期待を踏みにじっているという罪悪感。気持ちは既に潰れてしまって、言葉を発するなんて大層なことは出来ない。ここまで最低で最悪な世界に生きていることを改めて実感する。
「…………」
「嘘……だよね? なんかの間違いだよね?」
「………………っ!」
歯をくいしばる。彼女は何も悪くないと知っているはずなのに思ってしまう。彼女が僕を嵌めたのだと。美しい彼女の瞳が曇る。僕が不甲斐ないせいだ。力不足だったせいだ。目の前の少女に刃を向ける前に自分自身を責める。
「……ごめん。本当に、すみませんでした」
彼女を疑ったことに対して謝った。深く頭を下げる。悔しい。全てが憎い。泣き喚きたい。
「次からはこんなことしないで下さいね」
「そうだぞ、気をつけろよ」
傀儡状態の僕は先生に操られ職員室を出る。この部屋で、僕は操り人形でしかなかったのだ。隣に南原さんがいることが気まずくて辛い。それだけでなく暖房の無い外へ出たのだ。冷え切った心に追い打ちをかけられる。
助けようとするまでは良かった。方法を誤ってしまったのだ。冷静に先生を呼んだ方が最善だったのかもしれない。早く助けないとという偽善者の考えはさっさと捨ててしまえばよかった。なんて後悔してももう遅い。懸命に涙を堪えて早歩きで廊下と上履きの擦れる音を響かせる。
何もかも塞ぎ込んでいれば二度とこんなことは起きないだろう。そんな気休めにしかならない考えで自分を励ました。もう自分が何をしたいのかもわからない。校門を過ぎた辺りで名前を呼ばれた気がした。しかし、自分の名前を呼んでくれる人はこの世にいない。幻聴だろうと聞かなかったことにした。
「和田くん!」
二度目の言葉で現実に引き戻された。その声の主が誰なのか考えれば考えるほど分からなくなる。振り返るとそこには南原はさんがいた。
「さっきはごめん。和田くんが犯人じゃないって知ってたのに演技なんかして……」
その言葉は心を貫いて絶望に侵されている僕を殺した。そして実感する。
僕は生きているのだ。
胸の奥深くまで染み込んで離れない。この感覚に依存しないと生きていけなくなるような素晴らしさ。
あと数回この気持ちを味わえば中毒になるだろう。人に信頼されるのがこんなにも嬉しいなんて知らなかった。
「私は知ってる。和田くんは絶対に嘘をついてない」
この喜びを与えられる人間になるにはまだ道のりは長いだろう。だけど目指すのも悪くないんじゃないかな。なんて思えるほど衝撃的で印象的な言葉だった。
「あの時いた体格の大きい人が笠原 熊雄(かさはら くまお)って名前。笠原の父親は国会議員で過保護なの。だから先生たちも簡単に手出しできないんだよ」
だから先生たちも無理矢理僕をねじ伏せようとしたのかと1人で納得する。それから関崎や先生が言っていた熊雄が誰なのかも分かった。
「ありがとう。こんな僕を信じてくれるなんて…… 」
振り返って南原さんの方を見て一礼した。今回の件は僕が被害に遭うだけで済んだからいいものの、また同じようなことが起きるかもしれない。
純粋な正義感が湧いてきた。この笠原という有名ないじめっ子を止めたいという気持ちだ。
「ちょっと質問してもいいかな?」
「いいよ」
「笠原が他の人をいじめてるの見たことある?」
「うん。笠原は気に入らないやつがいたら片っ端からいじめるよ。私みたいに」
彼女が嫌な気分にならないよう、いじめられていた理由は聞かなかった。
『起きるかもしれない』ではなかった。現在進行形で起きているのだ。どうにかして対策をしなければならない。しかし、超えるには高すぎる壁が連なっている。
権力と過保護を兼ね備えた主犯格の親、それに怯えて機能を放棄するどころか児童を間違った方向へ導く先生、笠原の周りにいる実行犯兼おまけのやつら。現時点でわかる障害だけでもこんなにある。
それだけではない、笠原のいじめを止めたとしても再開しないとは言いきれないから厄介である。後のことは一旦置いといて今起きているいじめだけでも止めよう。
本当は直接教え込んだ方がいいのだろうが、相手には複数の部下がいて人数的に無理だ。人を殴る勇気が無いのも理由の一つ。今回のように先生が相手になる可能性も上がるためでもある。
「ねぇ、さっきから何考えてるの?」
南原さんが立ち止まったまま動かない僕の顔を心配そうに覗く。
「ちょっとね。どうやっていじめを止めようか考えてた。南原さんも一緒に……いや、ごめん。何でもない」
協力して止めさせようなんて思ったけど彼女を危険な道へ連れて行くわけにはいかないと思った。ただでさえいじめられていて、何をされるかわからない。それから大人に刃向かう可能性だってある。
今の時代、大人に刃向かうということは社会的な死を意味する。僕はともかく彼女には夢があるかもしれない。僕が誘えば協力すると言うだろうから前言撤回した。
「私も止めるの手伝うよ!」
「えっ」
薄暗くなった街に取り残された2人。微かに聞こえる車のエンジン音とフェンス越しに聞こえる部活生の声が遠く感じる。
「先生とかクラスメイトを敵にするかもしれないんだよ? 友達を無くすかもしれないんだよ?」
「友達なんていないし、いじめはダメだと思うからやりたいの! このままいじめられるのも嫌だし、1人じゃどうすることも出来ないから。それに、いい子ぶる絶好のチャンスだし?」
苦笑いを向けられて最初は戸惑ったが、しっかりと笑顔で返した。
「あと、下の名前で呼んでいいよ。そのかわり私も呼び捨てで呼ぶからね啓太」
「えっ、いきなりなんで?」
「そ、それは……お友達になった印?」
そう言いながら彼女は頬を両手で覆った。その行為がどんなことを示しているのかわからないが、僕に友達ができたというのは言うまでもない。
「わかった。じゃあこれから一緒に偽善活動していきますか」
突き出した僕の右手に亜子も手を重ねる。
「おぉ!」
それに続いて亜子も天にやる気を表明した。重ねた手を天へ勢いよく上げる。気合いを混ぜ込んだ叫び声は大空へ溶けていった。
僕たちは狂っている。赤の他人を助けるために身を削ろうとしているからだ。この世界で一番愛おしいのは自分のはずなのに。
明日から異常な生活が始まるだろう。しかし、不思議なことに胸が熱い。今まで平凡な日々を送っていたからそう感じたのか、あるいは……。
想いは風に吹かれてどこかへ飛んで行ってしまった。
翌日、いつものように時間ギリギリで学校へ着くと違和感を覚えた。周りの視線が痛いのだ。大体の予想はついていたが、ここまできついものとは思わなかった。これが毎日続くだけならいいのだけど。
「おい、大丈夫か?」
席の前まで来ると関崎に話しかけられた。そこまで関わりが深いわけではないが、心配そうな表情を浮かべている。
「うん、心配しなくても大丈夫だよ」
「おまえが悪者っていう噂が――」
朝の会の始まりを知らせる鐘によって話が中断された。
休み時間になると教室中の目線がこちらに集まる。それだけでなく、時々会話も聞こえてくるのだが意味を理解しないように本へ意識を向けた。
未知の感覚に包まれること約8時間。長い長い学校が終わる。亜子が心配になり、彼女のいるクラスまで足を運ぶことにした。
彼女は同学年なのだが、教室の場所は6年3組の真下なので、一つ階を降りて廊下を歩いていると右手を掴まれた。それに続いて左手も自由を奪われる。
振り払おうとするも、両方の手首を両手で握られていて動かせもしない。確認すると右手を坊主頭、左手を目つきの悪いボサボサ頭のやつが担当していた。前に亜子をいじめていた連中だ。
「やっぱりあの時のやつだぞ!」
坊主頭のやつが叫ぶ。
「なんだよ、離せ!」
手を振りほどこうと暴れる。しかし、力で勝つことは出来なかった。
「この、離せよっ!」
僕の抵抗は無意味に終わり、2人は無言で6年1組の教室へ連行される。こいつらを蹴ればどうにかなっただろうが、それでは負けを認めたようで嫌だった。
教室にはあの時のいじめっ子メンバーと亜子がいる。そして、僕が来たことに気がついた笠原が待ちくたびれた顔でお出迎えしてくれた。静寂を破ること無く笠原の前に立たされる。隣には女子に拘束された状態の亜子がいた。
風の音すら聞こえないまま笠原がこちらへ一歩進む。僕よりも大きな体をしていて怯んでしまう。それでも僕は笠原を睨み続けた。
笠原は右腕を振り上げる。全身が恐怖で満たされて足がすくむ。避けるという考えは恐怖に捻り潰され、圧倒された体は瞬きを忘れて声を失う。
力強く握られた拳に頬を殴られ、同時に掴まれていた腕をその辺に放り投げられた。忽ち、僕は地べたに倒れ込んだ。頬の痛みと地面に当たった右肩の痛みに挟まれて目の奥から何かが姿を現わす。男子3人が僕の周りに集まったと思えば今度は背中に痛みが生じる。
「……っ!」
歯を食い縛って言葉を飲み込んだ。黒板の手前で殴る、蹴るの暴力を受け、挙げ句の果てには唾を飛ばされた。痛みだけが全てを支配する。背中、腹、顔、頭、腕、足……と。
その攻撃は見苦しい格好になるまで続いた。途中、亜子の叫び声が聞こえた。何を言っているか聞き取れるほど余裕は無い。
僕への攻撃は止んだと思えば、机の下側にある隙間から亜子が何かされているのが滲んで見える。笠原が3列目の前からにある机を蹴って中身を散乱させた。腕を離した女子2人が散らばった教科書と笑顔を教室中にばらまく。
今気がついたのだが、教室には他の児童も数人残っていた。どうして止めないのだろう。
口の中で血の味がした。きっとボコられている時に噛んでしまったのだろう。立ち上がろうにも力が入らない。
笠原が坊主のやつに何か命令した。すると坊主はネームペンを筆箱から取り出してきた。
「まさか……」
怠さを忘れて立ち上がり、机を掻き分けてペンを奪いにかかる。
「やめろぉぉぉ!」
すかさず笠原に近づけないように2人の男子が押さえ込んできた。掻き分けた机が大きな音を立てながら教科書を吐き出す。教室が絶叫で染まった。
亜子は女子2人に体と顔を押さえつけられていた。笑みを浮かべる笠原がペンのキャップを外して先っぽを亜子の顔へ近づける。彼女も僕も抵抗するが意味を成さない。
笠原は余裕の表情をこちらに見せつけて挑発する。どうすることもできない自分に嫌気がさす。ペン先が頬に触れると負け犬の遠吠えが最高潮となった。
顔に文字が並んでいく。その文字の組み合わせが織り成す意味は決して快いものではなかった。むしろ見たくないくらいだ。こんな整った美しい顔をどんな気持ちで汚しているのだろうか。僕には想像出来ない。
笠原は満足するまで書き終えると帰っていった。他のメンバーも僕たちを地べたへ投げ捨て帰る。後を追っかけて殴りたい。顔面が崩壊するまで殴りたい。全員だ。でも、ここでやり返しをしたら僕も彼らと同罪になる。
気持ちを抑え込み深呼吸をする。今僕の目はどうなっているだろうか。酷く恐ろしいことになってると自分では思っている。亜子の方を見ると教科書を拾い集めていた。
僕も倒した机を直していると教室の中は2人だけになり、亜子に話かける。
「南原さん、大丈夫?」
「大丈夫だよ。それより、亜子って呼ぶって約束したじゃん!」
「あ、ごめん。次から気をつける」
元気であることを装った返事。毎日このようなことをされていたらさすがに耐えきれない。彼女はいつからいじめを受けていたのだろうか。
きっと彼女に友達はいる。しかし、いじめを受けるようになってから疎遠になっているのかもしれない。
僕と接してくれるのも今だけで、この事件が解決すれば僕のことなど忘れてしまうだろう。そんなことを考えているうちに机を直して教科書を全て拾い終え、2人でベランダへ出た。
僕はかけられた唾を、彼女は顔に付いたインクを落とすため冷たい水を手に持つ。風が吹くとより一層冷たく感じる。付いた唾がある程度誤魔化せたなと思い、亜子の様子を確認したが、まだ彼女の顔の汚れは落ちていなかった。
「手伝う?」
「あ、じゃあお願いします」
軽く掬った水を優しく亜子の皮膚に当てる。傷つけないように指を滑らす。柔らかい感触が僕の顔を熱くした。
「ほんと恥ずかしいなー。こんな姿見られてさ」
亜子が苦笑いしながら言う。
「僕だって、醜態を晒して恥ずかしいよ」
「しゅうたいって何?」
「醜い姿って意味。まぁ、こっちも見られたからお互い様ってこと」
ティッシュも使って綺麗に拭き取り、元通りになる頃には下校時刻を過ぎていた。教室の戸締りをして教室を出る。そして、鍵を返しに職員室へ向かう。
「いじめを止める良い方法ない?」
並んで歩きながら問いかける。もちろん回答に対して期待はしていない。僕が一晩考えても思いつかなかったのだ。彼女がいじめを止めること自体を忘れているのがオチだと思う。
「そうだった! 作戦考えてなかったね」
やはり。なんとなくわかっていた返事だ。
「でも‼︎」
急に声量を大きくするものだから反射的に亜子の方を向いた。すると得意げな顔が目の前にある。
「今思いついた!」
「え? 作戦を?」
「うん!」
その自信満々の表情には希望が詰まっていた。
「私ね、笠原の家知ってるの。家を見張ってたら何か弱みとか、見せそうじゃない?」
そう言ってドヤ顔を決める亜子。少し下品で大まかな作戦ではあるが、打つ手が無い状態よりはマシである。
「そうだね、いつから始める? 都合のいい日でいいよ」
「じゃあ今からっていうのはどうかな?」
校門の手前で目的地を変更させられる。彼女が思いのほかやる気満々で安心した。中途半端に協力されたら秘密にするような事を他人にベラベラ話す可能性があるからだ。
「いいよ。案内お願い」
彼女は自分の意見を取り入れられてご機嫌だ。鼻歌を歌い出した。歌なんて幼稚園とか小学校で習うようなものしか知らない。でも、明るい曲だというのは伝わってくる。
僕の住む児童園を過ぎてから10分ほど歩いたところで亜子が足を止めた。
「ここが笠原の家だよ」
彼女が指差す家は至って普通の2階建住宅。周りには似たような外見の家が建ち並んでいる。表札には笠原と書いてあった。
庭に車は無く、部屋の電気もついていない。亜子は敷地内に躊躇なく入り、中を覗くことの出来るありとあらゆる窓を確認する。そして、僕を呼んで2階の端っこに笠原の部屋らしきところを見つけたと言った。見てみると、カーテンの僅かな隙間から勉強机と、そこに並ぶ小学校6年生の教科書やノートを確認できた。
「ここじゃないかな」
「そうみたいだけど、覗きにくいね」
その部屋の中は塀を上らないと見えなかった。笠原の両親を含め、今は家に居ないから良いものの、帰って来たらさすがに塀に登って観察するなど出来ない。5時半を知らせる鐘が鳴った。
「あ、そういえば今日、最後の健康診断があったんだった」
理由は知らないが、僕は小さい頃から定期的に病院へ通っている。そして、今日でその健康診断が最後なのだ。
それで病院へ6時までに行かなければならない。ここからだとギリギリ間に合うか微妙なところ。
「ごめん、僕病院行かないといけなくて……。家の方向が同じなら送っていくけど」
「うーん、調べたいことがあるからもう少し残る」
勇気を出して誘ってみたのだが、断られてしまった。彼女のやる気が伝わってくる。やはり、一刻も早く苦痛から解放されたいのだろう。
いじめを受けている人のためにも、何より彼女のために笠原を止めたい。そんなことを思いながら塀から降りた。
「そっか、じゃあ気をつけてね。また明日。バイバイ」
「バイバイ」
手を振って別れを告げる。早歩きで園に帰り、必要な物を取って病院へ向かう。その途中、亜子の鼻歌が脳内でリピートされた。
病院は長く緩い坂の頂上辺りにある。時間的にも走ってその坂を上にある登らないといけない。
息を切らしながら病院に到着。時間はギリギリであった。いつものように受付して名前を呼ばれるまで待つ。数分もしないうちに呼ばれ診察室へ入る。
「はいどうぞ」
僕は看護師さんに勧められた椅子に座った。担当の医者は最近白髪が増えているおじさんだ。
血圧や心拍数を調べられた後、最近の体調はどうだとか、変なところがないかと聞かれた。
「特に無いです」
「検査した結果、異常も無いようだから、これで終わりです。今までお疲れ様でした」
全ての診断が終わり、医者から異常無しの結果をもらって児童園へ帰った。
僕は今日の出来事が嘘だったかのように平穏な空の下にいる。それは園に着いても、自室に入っても一緒であった。
次の日、いつものように学校で外履きから上履きへ履き替えたその時、上履きの中に硬い何かが入っていることに気がついた。何だろうと思いながら取り出してみると……。
「うわっ!」
湿った手触りに鳥肌が立ち、反射的に地面に捨ててしまった。いきなり奇声を上げたため、周りの児童が驚きながら振り向く。
出てきたのはりんご。昨日の給食に出たりんごのようだ。まだ腐ってなかったから許せるものの、これからいじめの内容は悪化していくだろう。教室に入ると走り回っていた男子とぶつかった。
「あ、ごめん」
僕が悪いわけではないけど、とりあえず謝る。すると、周囲にいた男子が叫び出す。
「うわぁ! あいつ菌に触れたぞ!」
「こっち来るなよ!」
僕は菌扱いされていた。もちろんお風呂入っているし、爪も切って、部屋も定期的に掃除している。
そんな真面目な回答は置いておき、人を菌扱いさせるよう仕向けたのはおそらく笠原だろう。教室の中で浅ましい菌の付け合いが始まった。
「なぁ、君が不清潔で汚いって噂聞いたんだけど、笠原が流したデマだよな?」
とりあえずりんごをゴミ箱に捨てて席に座ると、関崎が話しかけてくる。
「やっぱり笠原か……。昨日の内で相当仕組んだんだな」
ため息の混じった言葉が溢れた。薄々気づいてはいたけど、昨日いた4人以外にも笠原のいじめに加担している人がいる。今さっきのやつらはその一部かもしれない。
周囲の人間ほとんどが敵。それに圧迫されながら学校生活を送るなんて無理だ。さすがの僕でも不登校になってしまうだろう。一刻も早く状況を変えなければならない。改めてそう思った。
「頑張れよ! 俺は手伝えるほど勇気は無いから応援してる」
「ありがとう」
朝の始まりの鐘が学校に響く。休み時間になれば菌扱いや消しゴムを隠したりと地味な嫌がらせ。ただでさえ将来に関わる大きなテストがある今日に限ってこれだ。
今回初めて受けるこのテストでは現段階で就職できる職業がわかる。完全に学力社会となった今、自分のレベルを確かめるための貴重な経験なのに消しゴムが無いのは辛かった。
放課後になり、帰ろうとすれば呼び止められて八つ当たりをくらう。彼らの気が済むと集団は去っていった。その後亜子の教室に行ってみる。そこでは涙を浮かべた亜子が散らばった教科書を拾い集めていた。
「大丈夫?」
「あっ、啓太」
僕も教科書を拾い上げるのを手伝う。すると、亜子は慌てて顔を伏せた。
「う、うん。ありがとう」
涙を拭っているようだったので、その姿を見ないように周りを片付ける。僕に心配かけさせないよう、彼女なりに強がっているのだろうと思った。
どうすれば彼女を慰めることが出来るかなんて知らない。でも、彼女が傷つかないようにすることは出来る。
「絶対に笠原のいじめを止めさせよう」
「もちろん!」
決意を言葉にし、亜子の方を向く。彼女は大きく頷き、盛大な笑顔を作った。
「昨日、笠原の部屋が見えるいい場所を見つけたんだけど……今日も行く?」
「いいね! それじゃあ、今日はそこに連れて行ってほしい」
亜子は嬉しそうにしてあの歌を口ずさみながら片付けする。片付けが終わると、学校を出ていい場所に案内された。
途中までは昨日と同じ道を歩き、笠原の家の少し前の方で左に曲がった。そこは緩やかな上り坂になっていて、方向的に亜子の言ういい場所を察する。歩いていると、いつの間にか周囲にある住宅街から木々の多い林になっていた。
「着いたよ!」
予想通りの場所に着くと亜子は決まり文句を言う。いい場所というのは丘ノ第二公園というところであった。幼稚園くらいの子供たちが遊具の周りではしゃいでいた。
そこにある展望台から僕たちの住む丘ノ市を見下ろすことが出来る。そして、展望台の中間地点から笠原の家がいい感じで見えた。
「はい、これ使って」
亜子はランドセルから双眼鏡を2つ取り出し、その片方を僕に渡す。
「ありがとう」
受け取り、笠原の部屋を覗いてみる。リビングと笠原の部屋が少しだけ見えた。最新式の外から中が見えないタイプの窓じゃなくてよかったと一安心する。
それから、初めて双眼鏡を覗いたが、思っていた以上に鮮明に見えたので、この時代の技術を侮りすぎたなと少し反省した。
「それにしても、よく双眼鏡なんか持ってるね」
30年くらい前に生産中止となったものだ。実物を見るのも初めてで、こんな身近に持っている人がいるなんて思わなかった。
「実は、お父さんがこういうちょっと古いものが好きで昔のパソコンとかCDとか持っていて、ちょっと借りてきたの」
「なるほど。なんかそういうの憧れるなぁ」
そんな会話をしていると、リビングに変化が起きた。笠原が帰ってきたようで、お母さんのような女性が笠原に対して怒っている様子が伺えた。
その後、笠原は浮かない表情で自室に入ってランドセルの中からプリントを出し、宿題をやり始める。
「あれ? やっぱり……」
急に亜子が呟く。
「どうした?」
双眼鏡から目を離し、亜子に顔を向けた。彼女は双眼鏡を覗いたまま続ける。
「今、笠原がお菓子取ろうとしてたの。昨日、あの後も少し見張ってたんだけど、昨日はお父さんが許可して宿題しながらお菓子食べてた」
「ん? それで、今日はお母さんに禁止されたってこと?」
「うん。それに、昨日の笠原の様子を見たら、お母さんを避けているような気がしたの。もしかしたらお母さんは笠原に対して厳しいんじゃないかな?」
可能性としては十分にあり得る。笠原は父が甘やかしているせいであんな性格になったのかもしれない。しかし、母が厳しい人であれば父の甘さを叱ったはず。
「うーん、まだ証拠が不十分だからなんとも言えない」
結局、この日はこれ以外の収穫が無いまま帰ることになった。
翌日、教室に入ると中にいたクラスメイト1人が僕を睨みつけながら近寄って来る。
「なぁ、麻友の体育着盗んだのおまえだろ」
男子の一人が怒りの混じった声を震わせた。クラスメイトである麻友とは関わったことすらない。興味があるわけでもないし、彼女の体育着を盗むはずがない。
「体育着なんて盗まないよ。それに、名前書いてあるからすぐバレるよ? 馬鹿じゃないんだし、僕は盗まないよ」
「どうしたんだ? そろそろ鐘鳴るぞ」
ちょうどいいところで戸村先生が教室へ入ってきた。これで僕への疑いが晴れるだろうと一安心する。男子達が先生に状況を説明した。そして、先生が一言。
「啓太くんが盗んだならどっかに隠してると思うぞ。もちろん、盗んでないならどこ探しても見つからないわよ」
その台詞を完全に言い終えた瞬間、クラスメイトの男子全員が僕の机やロッカーを漁り始めた。そして数秒も経たないうちに奇声が聞こえる。その声の方向を見ると僕のロッカーから“内原 麻友”という刺繍のある体育着が出てきた。
「やっぱり犯人はこいつだったか」
「うわぁ、変態だな」
「クソ野郎じゃん」
「サイテー、キモっ、マジ死んだ方がいい」
罵声が教室を埋め尽くし、鉛筆、消しゴムなどの物が僕の頭や背中、お腹に当たる。反論も出来ないまま呆然と立ち尽くす。
「笠原っ……!」
怒りに満ちた声が漏れるが、誰の耳にも届くことはなかった。怒りとは別に心の奥底から何かが沸騰する。笠原に対して怒りを通り越して殺意が芽生えた。
その日、学校が終わるまでずっとその事だけを考えていた。授業中も休み時間も給食、掃除中も体育着の件で先生に怒られている時も。
「大丈夫だ、俺はおまえの味方だ。辛いのはわかるけど、今は我慢の時じゃなかったのか?」
関崎がこちらのイライラに気づいて励ましてくれた。笠原が視界に入っていたら首を締めてでも殺そうとしていただろう。
事実を知っている存在はとても大きく、なんとか自我を保つことが出来た。その後の亜子と一緒にいる時間がどれほど僕の救いになったかは計り知れない。
亜子は相当な傷を負っているだろう。それなのに僕のことを励ましてくれた。この頑張りを無駄にしないためにもどうにかしなければ。
今日も亜子と一緒に笠原の家へ行って偵察したが、めぼしい情報を得ることはできなかった。そして、虚しい1日が過ぎていった。
1日、また1日と時は進み、2週間経った。
給食の時には味噌汁に牛乳を入れられたり、掃除の時はちりとりで集めたゴミを頭にこぼされた。ほうきをしている側で小さく切り取った消しゴムを投げつけられたり、体育の前に体育着を濡らされたりもした。
いじめは日を追うごとに悪化する。そのたびに精神を削り、身体を痛めた。自分のことで精一杯で亜子がどういう状況かわからない。このままゴマのようにすり潰され、跡形も無く潰れてしまうのかと何度思ったことか。
そんな絶望に塗れた日々は今日で終わった。
「これで4度目。確信してもいいかな」
僕はそう断言する。学校終わりの偵察が習慣化して2週間ずっと見張ってやっと確信まで持って行くことに成功した。
それは笠原の母が厳しい性格であるということだ。笠原の行動を説教している母とそれを遮る父の間で言い争いが起きた。それも2週間で4回もだ。
この母が厳しいということを利用して笠原のいじめを止めたい。しかし、良い方法は思いつかなかった。
「今日はもう引き上げよう」
周囲も暗くなってきたので、そう提案した。
「うん。また、途中まで一緒に帰っていい?」
「もちろん」
街灯の少ない下り坂を歩く。理由はわからないが、今、物凄く嬉しい。
いつものようにいじめっ子に対しての愚痴を言い合っていた。それだけで嬉しく感じるほど脳は麻痺してしまったのかと思った。
僕が悴んだ手を擦り合わせているのを見た亜子が突然言う。
「そういえば、そろそろ学芸会だったね」
そう、僕たちは13日後には学芸会を控えていた。僕たち6年生の出し物は劇である。劇のストーリーは僕たちの住む、この丘ノ市に代々伝わる物語だ。
僕が成り切るのはソノミの慶次という人物だった。学芸会のストーリーでは悪役である。それに対して主人公、つまり、悪役を懲らしめる役は笠原なのだ。
「ん……? それだ!」
思わず叫んでしまった。びっくりした亜子は慌てて態勢を立て直し、こちらの様子を伺う。
「学芸会の時に笠原が誰かをいじめている動画を流すんだ」
不敵な笑みを浮かべ、楽しげに口を開いた。笠原の母がいじめのことを知ったらどうなるか、それ以前にいじめを受けている生徒の親が黙っていられるか。
その様子を想像しただけで笑みがこぼれる。他の親たちから非難を受け、申し訳なさそうに頭を下げる笠原の姿が無様すぎておかしかった。
笠原の親が学芸会のしおりを見て楽しみにしてそうな顔をしていたので、絶対に来るという確信がある。奇抜すぎる作戦に亜子は動揺を隠せないでいるようであった。
「大丈夫。ビデオカメラとプロジェクターは僕が用意する。亜子はその動画を撮るの手伝ってくれればいい」
「う、うん」
少し抵抗が伺えたが、それは歯牙にも掛けなかった。とにかく笠原への報復がしたかったからだ。あのうざったらしい顔面を崩壊させたい一心である。
「じゃあ、明日から始めるから学校終わったら俺のところ来いよ」
傷ついて原型を留めていない精神は狂いを発生させる。
「わ、わかった。じゃあ明日……ね」
亜子の家の前まで送り、手を振らずに児童園の方向を向いた。今は笠原にやり返す動機なんて怒りと憎悪だけである。
ふと、空を見上げると雲一つ無い夜空が広がっていた。明日に向かって動く世界の真ん中で光る星は濁っている。僕はそう見えるほど目も心も全て腐っていた。
思い切り肩を押されて尻餅をつく。放課後、職員室へ行こうとした俺は呼び止められて理不尽な八つ当たりを受けていた。
「ほら、立てよ」
クラスメイトの男子が見下しながら軽蔑する。前まではこんなことするような人ではなかったのだが、笠原の影響で彼もいじめっ子の1人になってしまったのだろう。笠原の影響は女子にも及んでいて、周囲から距離を置かれていることがわかる。
仕方なく立ち上がった。すると、ランドセルで殴りつけられて倒れ込んでしまった。もう痛みなんて感じない。いや、どうでもいいと思えるようになったのだ。
男子が去ってから職員室へ向かった。そして、去年の担任である仲松(なかまつ)先生を呼んだ。
「どうしたかね?」
その先生は頭のてっぺんだけがハゲていて、かわいそうなことになっている。だからと言って馬鹿にする人がたくさんいたが、とてもいい先生だ。
思いやりとやる気は他の先生と比べ物にならないくらい強い。だから、この先生ならば、僕のお願いを聞いてくれると思ったのだ。
「ビデオカメラとプロジェクターを2週間ほどお貸りしたいのでが、よろしいでしょうか?」
「もちろんいいですよ。何に使うんですか?」
「学芸会の前に使いたい場面がありまして」
とっさにでまかせが出た。流石に笠原への報復のためなんて言えなかった。
「そうですか。プロジェクターは今すぐ貸すことはできませんが、カメラは今持って来ますよ」
そう言って少しも怪しまずに職員室の奥に引っ込んだ。数分もしないうちにカメラを持って戻ってきた。
「壊さないように気をつけてくださいね。プロジェクターは来週でもいいですか?」
「はい。では、また来週来ます」
一礼して6年1組の教室へ向かう。とりあえずビデオカメラとプロジェクターを借りることに成功した。あとは、いじめている場面を動画に収めるだけ。
2階の廊下を歩いていると、ちょうどいいタイミングで教室から亜子が出て来た。
「カメラ借りれたからさっさと仕事に入ろっか」
「うん……」
「そうだな、いつもいじめられてる人を撮影したら早いかも。誰かいい人いる?」
亜子は静かに腕を持ち上げ、教室の中にいる男子を指差す。早速、椅子に座っているその男子に近づいて話かける。
「ねぇ、ちょっといいかな?」
振り向けた顔は怯えていた。彼は返事も返さないまま無言で震える。あたかも俺が笠原の仲間であるかのような態度にイラつきを覚えた。
「君に笠原へ仕返しするために協力してほしい」
「そ、そんな……。あいつに仕返しなんてしたらっ!」
彼も犠牲者の1人だから怖がっていても仕方ないことだ。彼の肩に優しく両手を置いて目を合わせる。
「大丈夫。君はいじめられてる時になんらかの抵抗をすればいいんだ。それだけやれば、あとは俺が笠原を捻り潰すから」
穏やかに言い聞かせようとしたつもりだったが、信用できていない様子であった。
「でも……」
「別に、君が恨まれることは絶対に無い。だから安心して。『やめて』と言うだけでいいんだよ。簡単なことでしょ?」
「わ、わかった……やるよ」
「よし、じゃあ頼むぞ」
そう言い残して次の被害者の元へ行く。そんな作業を繰り返して3人を説得することに成功する。話かけた瞬間に悲鳴を上げて逃げていく人もいた。
「まぁ、3人いれば十分かな。あとは、いじめの現場を撮影するだけかな」
「うん。そうだね、もう少しで……」
言葉に詰まった亜子はそのまま黙り込んでしまう。それを無視して靴を履き替える。夕焼けの中、児童園に帰る道をまっすぐ進む。俺の隣には歩幅を合わせる亜子がいた。家の方向が逆であるにもかかわらずついてくる。
「どうしたの」
ぶっきら棒に尋ねた。いつも一緒にいるからそこまで不思議に感じなかったのだ。
「その……一緒――たいな、って――ただけ」
「そっか」
正直、車の音が邪魔でしっかりとは聞き取れなかった。しかし、大したことを言ってないのは確かであったため、聞き返すことはしなかった。
道端に一匹の子猫が座っている。それを見た亜子は猫に駆け寄った。
「可愛いー、あれ? 首輪付けてる」
彼女が立ち止まっても俺は足を止めることはなく、ひたすら目的地へ歩いた。早く家に帰って横になりたかったのだ。疲れたし、怠くて歩いていることすらしんどいのだ。
「啓太、一緒にこの子猫を飼い主のところまで届けない?」
はぁ、とため息を吐く。重たい足がゆっくりと止まる。
「なんで俺も行かないといけないんだ?」
「えっ……」
そして、また歩き始める。飼い主がいるならとっくに探してるはずだ。こいつが見つかるのも時間の問題であるなら、届けた俺らは無駄に時間を費やしたことになる。
人それぞれが不平等に与えられた貴重な時間が少しでも削れるのはさすがに耐え難い。
帰り道へ一歩踏み出した瞬間、腕を掴まれた。そしてか細い声が訴える。
「ねぇ、きっと飼い主もこの子も困ってるんだよ? なんで助けようとしないの?」
「別に、そいつほって置いても飼い主がすぐ見つけるでしょ。助けるだけ時間の無駄だよ」
パチンッ
「最低」
そう聞こえた気がした。
振り返って言った無気力な言葉は痛みと共に吹き飛び、頭が真っ白になる。
何が起きたのかわからない。ただただ痛い。頰と頭、とにかく全身……それから胸が抉られたかのようにもの凄く痛む。
周りの建物から跳ね返ってきた音がやけに心を突き刺し、吐き気もする。涙も溢れそうになる。
こんな感情、聞いたことも無ければ感じたことも無く、存在自体今この瞬間知った。この感情を言葉で言い表すのは決して簡単では無い。いや、表すことは不可能だ。
自分が壊れていくような感覚に襲われ、愕然とした。自分の中にある善意が復讐へと変わっていたのだと自覚する。
自分の心が弱いことを痛感し、亜子の優しさがどれほどの支えになっていたかも改めて思い知った。1人じゃ何も出来ない。僕一人じゃ無力なのだ。
側で支えてくれる人や協力してくれる人がいることで力や勇気が出るし、それが動機になる。亜子の協力と支え、関崎の励ましによって今の自分がいるのだ。しかし、自分が脆いせいで目的を見失ってしまった。
せっかく臆病な性格を卒業したのに今度は尊大になりすぎて道を誤るところだったのだ。
これ以上クズになってはいけない。そのことを気づかせてくれた彼女には感謝しなければならない。そして、目標を改めたら絶対にこの事件を解決させる。その前に……。
風と共に樅の清々しい香りが宙を舞う。頬がヒリヒリと痛む。亜子にビンタされたのだ。僕はあの穏やかな彼女を怒らせるほど腐ってしまったのだ。
「――あっ、ごめん……なさい。私のこと、殴って」
亜子は自分のやったことに気がつき、今にも泣きそうな表情を浮かべる。そして、叩いた自分の右手を叱るように引っ込め、怖がりながら顔を突き出した。
「ほら、早く……」
僕は彼女を殴る権利なんて無い。むしろ、こちらが殴られるべきだ。心の痛みが限界に達し、胸元と目に違和感を覚えた。
「目、つぶって」
何故そんなことを言ったのか僕自身もよく理解出来ない。
人間は常に醜態を晒して生きている。それは僕も同じことだ。だけど、僕が泣いている姿を亜子に見られたくなかった。それがどうしてなのか、答えを見いだせない。
彼女は頷き、ゆっくりと瞼を閉じると光る涙の筋が出来上がる。歯を食いしばる表情が目に焼き付く。
僕よりも辛い思いをしているのにも関わらず、平然を装っていたことを痛感した。自分の理解が追い付かないまま、また衝動に駆られる。
「……っ⁉︎」
「ごめん……。僕が、僕が弱いせいでこんな……」
亜子の肩に両手を乗せて抱き寄せた。そして涙声で謝る。
「僕よりも亜子の方が辛いはずなのに自分が一番の被害者ぶって……。笠原に仕返しするためだけに亜子を利用した。それからこの2週間、一番大切な仲間である君の存在が当たり前のものと勘違いしていた」
だんだんと声が大きく、強くなっていった。それと同時に涙がポロポロと落ちる。お互い顔が見えないほど密接していた。終わりの見えない道から顔を出した夕日が眩しい。
「亜子が居なかったら今の僕は絶対に居ない。君のおかげで他人と関わる大切さを知ったし、初めて生きてるって実感した。だから……」
息を吸い込む。
「これからも、友達でいてください」
誠心誠意込めた言葉を放った。亜子を失いたくない。ずっと側にいてほしい。これから先、ずっと。だから、こんなくだらないことで喧嘩したくなかった。形だけでもそのままでいたい。繋がっていたい……一人は寂しいから。
すると、さっきまで無抵抗で反応も示さなかった亜子が抱き返したのだ。
細くて華奢な腕に包まれ、心なしか安心した。少し苦しいのは受けて当然の罰なのだろう。冷たい心が浄化されていくような感覚に陥った。
「もちろん、いいに決まってるよ……。というか、もう友達だよ。こんな私で良ければいじめの件が解決しても、その……友達でいてくれないかな?」
「当たり前だよ」
時折聞こえる鼻をすする音で彼女も泣いていることがわかった。無言で涙が尽きるのを待つ。ランドセルが邪魔だなと思った瞬間、自分が今何をしているのか気づく。
顔が熱くなり、心拍数が上がっているのがわかる。静寂の中騒ぐ心臓の音は今度こそ聞こえているだろう。意識してしまうと五感はいつも以上によく働く。
沈む夕日、髪の爽やかな匂い、ランドセルの特徴的な触り心地、口内に広がる不思議な味、自分の心音。
無意識とはいえ、女の子に抱きついてしまった。この罪は重い。相当な時間が流れ、涙も落ち着いた頃に抱くのをやめた。亜子も腕を解く。彼女の涙も跡を残して消えていた。
「いつまでも友達でいよう!」
「う、うん……。じゃあ約束ね」
頷くのに抵抗があったような気がした。僕が急に抱きついたことを謝ってないせいか。
「あ、あと……その、急に抱きついてごめん」
こちらが謝っているのに彼女は笑顔で小指を出してきた。
「そんなことはどうでもいいの。それよりほら!」
出した小指を強調するように上下に振る。僕は彼女が何をしたいのか分からず、対応に困ってしまう。
「えっと……」
「啓太も小指出して」
言われるがまま小指以外の指を折り曲げ、彼女の手の前へ持っていく。すると、いきなり伸ばした小指同士を絡めてきた。日が沈むように僕も染まっていく。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます! 指切った!」
そう言い終わると指を離した。
「何それ。ハリセンボン食わすならまだわかるけど、飲ますとか危ないこと言って」
苦笑い混じりに疑問を振る。
「違うよぉ〜。針を千本飲ますんだよ。しかもこれは約束を破らないための誓いっていうだけ。啓太なら大丈夫だと思うけど、絶対に破ったらダメだからね」
僕は知らないことがたくさんあるらしい。本をたくさん読んでいるからいろんなことを知っていると思っていた。でも、実際は違っていた。人と関わることで知ることができることもあるということだ。
「わかった。絶対に破らない」
亜子は頬を膨らませて怒ってみせた。なのに可愛いと思ってしまったのは僕だけの秘密だ。
「よし、じゃあ猫の飼い主を探しに行きますか」
改心したところで本題を提示した。もうすぐ門限だが、亜子を見捨てるという選択肢はもう無い。
それは少しずつ罪の償いをしていかないといけないという使命感では無く、彼女と一緒に居たいという気持ちと純粋な善意があるからだ。
「そうだった! 完全に忘れてた」
そう言って猫のいた場所に目をやった。そこにはおとなしく座る子猫がいる。
「よかった、どこにも行ってなくて」
亜子は両手で子猫を抱え上げ、しっかりと腕の中に収めた。子猫は抵抗することなく捕まってミャーと声を出す。かわいいな、なんて思いながら猫を覗いた。首輪には住所が書いてある。
「ツグネ地区2丁目か。ここから結構離れてるけど、亜子は大丈夫?」
「もちろん!」
そして目的地に向かって歩き始めた。何の会話もせずに黙々と足を動かす。さっき亜子を抱いた時の感触がまだ残っていて、どうしても意識してしまう。そのせいでいつも通りの振る舞いが出来なかったのだ。
すごく恥ずかしいことしたな……なんて後悔しつつ、亜子の顔を覗き込んでみる。彼女は俯いて自分の足をじっと見ていた。やはり、彼女も気にしているのかと思った瞬間、こちらの視線に気がついた彼女と目が合う。
数秒時間動けなくなる感覚に襲われ、その間に抱いた時の事を鮮明に思い出し、全身が熱くなっていく。
我に返ると恥ずかしさに耐え切れず、目を逸らした。亜子も同じくらいのタイミングで前に向き直る。僕はいつの間にか止まっていた足を進めると、亜子もそれに続いた。
「きょ、今日は暑いね」
「そ、そうだね」
暑いなんて言ってしまった。今、冬です。はい。暑いわけないじゃないですか。それに明後日には16年ぶりの雪が降る予報……いや、絶対に降ると言った方が正しいか。
「あ、その、今日は雲が厚いなと」
そう言って空を見上げてみる。雲一つ無い快晴であった。
「あれ、僕の見間違いかな?」
「ふふっ、ほんとだ。雲無いじゃん。それに……今冬だし暑いわけないよね」
彼女は笑い出した。大きな声を出して、涙も流している。緊張が一気にほぐれ、僕まで笑みが零れた。
僕は生きているのだ。
もう、この感情と出会うのは2回目である。1人じゃ知ることも無かったこれは、僕が歩く理由なのかもしれない。そう確信した。
「多分ここだな」
気づけば目的地に着いていた。宗田(そうだ)と書かれた表札が付いている小さな一軒家のインターホンを鳴らす。
「どちら様ですか?」
すると、女性の声がインターホンから聞こえてきた。
「この猫はこの家の猫ですか?」
亜子は言いながら猫がカメラに映るように持ち上げた。
「あ、そうです! 家の猫です! 少し待っててください」
ほんの数秒後、ドアの奥から勢いよく足音が近づいてくる。その勢いでドアが開き、中から1人の男子が出てきた。
「ミース!」
亜子から猫を取り上げて抱きつく。その男子はボサボサ頭が特徴的で、見覚えがあった。……あの時のいじめっ子である。それに気づいた僕は、とっさに思いついたことを実行に移す。
「おう、久しぶり。ねー、今から少し話さない?」
「え? あっ」
僕のことに気がついた彼は動揺した。今から話さないか、なんていじめの仕返しをされると思ってもおかしくはないだろう。
「何? 陽路のお友達?」
その後ろから母親が顔を出す。
「あ、あぁ。でも、もう5時半過ぎたし……」
「いいよ、夕飯が出来上がるまでなら」
「あーうん。わかった……」
宗田は抱えていた猫を母親に預けて恐る恐るこちらを向く。彼の母親には感謝しなければ。この上ない笑顔を作り、その不敵な笑みを彼に見せつける。
「歩きながら話そうか」
そう言って宗田を招く。彼は仕方なさそうについてきた。亜子は驚きを隠せないようであったが、静かに見守もってくれている。
「あの猫が居なくなって心配した?」
「……そりゃあもちろん」
「じゃあ、誰かがあの猫を捕まえていったらどうする?」
陽路は少し黙る。
「その前に未来機関が動くんじゃ……?」
「未来機関が気づかなかったら?」
「どうすると言われても……。その捕まえててった人探して取り返す」
「だよな。じゃあ――」
間を空けて息を吸い込む。ここで彼を味方に、少なくとも敵ではなくなってもらう。
そのために必要なのは緊張感と具体例。いつか読んだ小説にそう書かれていた。そして今、緊張感を作った。あとは彼にとって身近な事件を例として取り上げる。上手く成功する確信はどこにも無い。
「犯人が僕なら殴りたくなるよな?」
「なっ! まさか、おまえ!」
宗田は足を止めてこちらをじっと睨みつけ、拳を構える。僕はそのタイミングを見逃さなかった。
「その怒りだよ。僕も嫌がらせを受けたらムカつく。そして、やり返したくなる。僕が言いたいことわかる?」
「……俺だって、やりたくないんだよ。でも、笠原の仲間にならないと俺がいじめられる」
さっきと変わって弱々しい声で答える。拳を解き、目線を落とす。暗くなっていく街にカラスの鳴き声が街灯をつけてゆく。
「それに、笠原のお父さんは国会議員だぜ? 俺だけじゃなく、俺の親まで敵にされたらと思うと……」
「そっか。親に迷惑かけないためか。優しい面もあるじゃん」
宗田はその言葉を聞いた途端に同情してくれた、これで許されるといった安堵を本当に得たのか確認しようとする顔になった。
「とでも言うと思ったか?」
僕は前言撤回する。もちろん最初からそうするつもりであった。
「心のどこかでいじめを楽しんでたんだろ? だからやめようとしなかった」
「そ、そんなこと」
「ある。ないなら笠原を止める方法を考えて行動したはずだ。それに自分たちのことしか考えてないじゃないか。僕のような立場にいる人はどう思ってると思う?」
いい匂いに反応した宗田のお腹が鳴った。彼は恥ずかしそうにお腹を押さえて家の方向へ体を向ける。
「……そろそろ帰らないと」
この場から宗田が逃げようとした。ということは、宗田の心を十分に揺らしたということだ。
「最後に頼みたいことがある。僕たちに協力してほしい。笠原のいじめをやめさせる、協力を」
「考えておく」
ぶっきら棒に返事して走って行く彼の背中に向かって叫ぶ。
「またな!」
彼は言葉の代わりに手を上げた。結果は良好だったようだ。
「やっぱり啓太ってすごいね」
少し距離を置いて様子を伺っていた亜子が寄って来て言った。
「そんな事ないよ」
「フフッ。けんそん、だっけ? まぁいいや、帰ろうか」
街灯と微かな月明かりを頼りに亜子の家を目指した。この何気無い日常を愛せるようになった僕は、失うということの真意を知らない。
亜子を家まで送り届けたので、園に着く頃には6時なっており、先生が入り口で待ち構えている。
怒られるのを覚悟して園へ入ろうとすると、案の定先生に呼び止められた。
「啓太君、どうしてこんなに遅い時間に帰ってくるの? もうとっくに門限過ぎてるよ?」
「その……」
「もしかして危ない人たちと遊んでるんじゃないでしょうね?」
僕は言葉に詰まってしまった。理由は児童園の先生たちも国会議員を恐れてるかもしれないからだ。外出が禁止されれば、学芸会に向けた準備ができなくなってしまうので、それだけは避けたい。
「あら、啓太君じゃない。珍しいね」
そう言いながら園の中から松林先生が出てきた。
「珍しいも何も、最近では常習犯ですよ?」
「えっ? そうなのかい?」
松林先生は僕に目をやって言う。僕は黙って頷いた。
「友達できたの?」
「はい」
「そーなのかい! 良かったじゃない」
松林先生は自分の事かのように喜ぶ。僕がずっと1人でいることを気にしていたのだろうか。
「田中先生、ここは許してあげましょ? この子ずっと1人だったから寂しかったのよ」
「あ、はぁ。松林先生が言うのなら……。今日のところは注意だけにします。だけど! 次からはちゃんと罰を受けてもらいますからね」
「わかりました。松林先生、ありがとうございます」
僕は感謝の気持ちを込めてお辞儀した。それから自室に向かう。廊下を歩いているとたくさんの話声が聞こえた。
「ねぇねぇ、あいつさ豊野(とよの)総理の右腕とも呼ばれる笠原議員の息子に喧嘩売ったらしいよ」
中学か高校か知らないが、知識を披露したいがために僕を使うのはやめてほしい。
「あいつのせいでこの児童園はもう終わりね」
いつものことであるのに腹が立つ。こんな陰口されては言い返しもできないから酷なものである。
「あいつと関わらなくて正解だったよ。俺まで標的にされるとこだったぜ」
この世は何もわかっちゃいない。
この国が今のように危ない状況に置かれたのは前総理だけのせいじゃない。ずっと前からゆっくりと腐り、少しずつ崩れていったのだ。それなのに世間は全て前総理が悪いかったように言った。
むしろ前総理は危なっかしい状況を立て直そうとしたのだ。その計画は失敗してしまったが。
僕は絶対に正しいことをしている。どうしてだいたいの人は表面上だけ見ておいて、中身を知ろうとしないのか。結果も大事だが、過程や目的も知ることも必要だと思う。
これは恋愛でも言える。昔から『一目惚れ』というのがあり、最近ではこの『一目惚れ』をする人が多くなったらしい。少し前にできた法律のせいでもあるだろうが。
人はどうしてこんなにも単純なのか僕は理解出来ない。やはり僕は他人と仲良くするのは難しいのだ。
部屋の前でため息をついて中に入る。中ではルームメイトの折本(おりもと)がベットに転がりながらゲームをしていた。今では小さい頃の馴れ馴れしさが無くなり、苗字で呼び合っている。
「おかえり」
彼がこちらに気づいた。それに続けて彼は問う。
「おまえさ、どうして笠原議員の息子に喧嘩売ったんだ?」
彼がゲームの画面から目を離すことはなかったので、机にランドセルを置いて椅子に座った。
「折本には関係無いことでしょ?」
折本の方を向いて吐き捨てるように言った。それは、さっき耳にした会話のせいだろう。
「俺はずっと気になってるんだよ。最近帰りも遅いし。そのおかげで宿題も写せないし?」
笑いを狙ったのだろう。しかし、笑える気分ではなかった。
「まず、僕が笠原に喧嘩売ったっていう噂が嘘だよ」
「え⁉︎」
彼はゲーム機を放り投げ、僕の側に寄ってきた。
「マジか?」
興味津々の目を輝かせる。
「当たり前だよ。僕はいじめられていた生徒を助けただけ。それで、いじめていたのが笠原だったわけ」
「でも何でそんな事した? 笠原が国会議員の息子だってことも、いじめっ子ってことも知ってただろ?」
彼の目はいつもに増して真剣だ。それと同時に、いつの間か僕は折本に対して心を開いていたことに気づく。
思い返せば彼を無視し始めて数日後には彼から話しかけてくることは無くなった。それは静かになったという点では良かったのだが、孤独を感じる時間が長くなった。
淋しくて、哀しくて、辛くて、苦しくて……。
そんな僕が、ふと折本に話かけると嬉しそうな表情で応じてくれたのを覚えている。それから彼も話かけるようになった。
人間って本当に不思議だ。記憶や気持ちにまで干渉できるようになった現代でも、コンピューターは人の行動を予測しても、当たるのは50%未満。心情の変化も60%前後である。天気予報は100%なのに。
「国会議員の息子だなんて知らなかった。助けた理由は偽善ってやつだよ。自分は周囲の人から認められたかった。自分の存在をアピールしたかった。そして、1番の理由は友達が欲しかったんだよ。きっと」
思っていることを洗いざらい話し、気持ちが落ち着いた。
「友達って、俺は友達じゃなかったのか」
「まぁ確かに、折本を友達と思ったことは一度も無かった」
「あはは、さすがにそれ言われると辛いな」
折本は苦笑いしながら肩を落とす。
「でも、今は違う。折本のことは友達だと思っている。多分、少し前の自分は人との関わりに飢えていたのかもな」
人間は何かを得たとしても、いずれそれだけでは満足出来なくなる。そして、欲望の連鎖に飲み込まれていく。いつか大切な物を無くしても気づかないほど狂ってしまう。
今日もお風呂の時間を知らせる鐘が鳴る。
久しぶりに降る雨が僕の靴をぐしょぐしょにする。傘では守ることの出来ない足元まで狙ってくるのは卑怯だと思う。雨独特の臭いが鼻をかすめる。あまり良い気分では無い。
所々に水溜りが出来ている。それを思い切り踏んでびしょ濡れになる児童が数人目に映った。この状態で学校へ行くなんて信じられない。ちなみに、僕の場合は水をかけられ、着替えも無いのでそのまま一日過ごしたことはある。
学芸会まであと12日。時間はまだまだ残っているので、そう焦ることはない。確実にこの作戦を成功させることが1番大事である。
「和田さん」
名前を呼ばれて振り向くと、そこにはクラスメイトの1人がいた。彼は笠原のグループであると思うが、遠くから眺めるだけでいじめに関わってこない人だ。
「何?」
もちろん気を緩めることは出来ないので、警戒しながら少し距離を置いた。
「あ、あのさ。俺、川内って言うんですけど、笠原さんに何かしようとしてるんですか?」
計画がバレていた? 嘘だろ? それとも、かまをかけているだけなのか?
動揺を隠し切れず、目線が泳いだ。下手な事を言わないように口を固く閉ざし、最善の答えを探した。
「何で知ってるの?」
あからさまに動揺をしてしまったので、ここでとぼけるのはナンセンスだと思った。もし、陽路が信用できる仲間に教えたのだとしたらいいのだが、彼が僕たちを潰すために行動したのなら手痛いところである。
「あ、あぁ! いつも後をつけてるわけじゃないですからね? たまたま。たまたま見つけただけで……」
川内は急に恥ずかしがり、もじもじし始めた。雨と傘がぶつかり合う音がいたるところから聞こえる。彼の声はその音と同じくらいの大きさであった。
「丘ノ公園から笠原さんの家を覗いているのを結構見るので……。この前は陽路とコソコソ話していたから、何かするのかな〜って思って」
探り? それとも純粋に気になっただけ? 時々鳴る水が跳ねる音に意識が向きそうになる。集中し、どう返すか考えた。
「川内は笠原のことどう思ってる?」
多分この質問で大丈夫だ。下手に悪口言うなら完全に敵だ。だが、曖昧なら中立という可能性もあるかもしれない。
「笠原さんは、普通に良い人なんですけどね。多分、幼稚園の頃いじめられていたことが原因と思う」
「え? もしかして、今のいじめはやり返しってこと?」
「そんなところだと思います。笠原さんの父さんが喝を入れたって聞いた。今はいじめる側にいるけど、根は良い人だよ! だから、その、笠原さんをいじめるのはやめてあげてほしいです」
意外だ。笠原が自分の弱さを隠すために他人をいじめていたなんて。でも、学芸会を使って反省してもらう計画は実行する。
僕たちが幼稚園の時は笠原の父親はまだ有名人ではなかった。そう考えれば合点がいくので、おそらく川内の言うことは本当なのだろう。
その頃は、父親も普通の親であったのだろう。ただ、有名になってから考え方が変わってしまったのか、あるいは変えられたのか、もしかしたら気づかない間に変わっていたのかもしれない。
「今、笠原を反省させる計画があるんだけど、僕はいじめる気なんて一切無い。だから、この計画を手伝ってくれない?」
「え、あっ、はい!」
川内は何故か嬉しそうに大きく頷いた。その後、僕の隣から離れることなく学校へ向かう。
「和田さんってすごいですよね」
「急にどうした?」
「あの、俺、和田さんのこと尊敬してるっていうか……す、好きなんです」
「そうなのか――え? like《ライク》の方の好きだよね?」
川内は言葉に詰まって黙り込んだ。確かに彼は男子にしては大人しいし、顔立ちも女子っぽいけど。それでも、悪い冗談か?
「……love《ラブ》の方です」
「loveって、え? えええ⁉︎」
雨の音が邪魔しているが、さっきと違ってしっかりと僕の耳に入った。聞き間違いは絶対にしていない。しっかりとした『ラブ』と言った。僕が大声を出したせいで周囲から冷たい視線を感じる。
LGBTの人がこんなにも身近に居るなんて思いもしなかった。驚きと戸惑いで何て言えばいいのか全く分からない。
しかも、告白されるのも始めてだ。誰とも関わっていないから告白される理由も無いわけだが。
「えっと……その、ありがとう」
相手はきっと相当な勇気を振り絞って告白したし、僕に好意を抱いてくれたのだ。感謝の言葉くらいは言わないといけないだろう。『ごめん』なんて言ったらその好意を全面的に否定することになると思う。
しかも、彼は自分がLGBTであることも告白したのだ。これは今後の人生に関わるくらい重要な話である。この国で同性同士の結婚は認められていないし、現在、一定の年齢になれば強制結婚という法律がある。
仕方ない法律ではあるが、酷い話であることは事実。この国の少子化問題を解決する他の手段が早く見つかればな、と思う。
「人から告白されたの始めてだから、なんて言えば良いか分からないけど、ありがとう。でも、付き合うとか分からないし……友達としてよろしくお願いします」
「迷惑……でしたよね」
川内は落ち込んだ様子で顔を伏せる。
「そんな事無いよ。人を好きになるのも気持ちを伝えるのも、生き物だから出来る。そう考えたら素晴らしい事だと思う。だから迷惑だなんて微塵も思ってない」
「……っ! そんなって思ってくれるなんて……。やっぱり和田さんはすごい」
「そんなことないよ」
気がつくともう教室が見えるところまで来ていた。そして、教室に入るとそれぞれの席へ着く。友達がまた1人増えて嬉しい。
「計画の方はどうよ?」
僕の前の席に座る関崎が小さめの声で話しかけてきた。
「順調だよ」
「じゃあさ……鐘鳴ったから、今度話すね」
いつもの様に関崎との会話途中に鐘が鳴る。今日の放課後には証拠の動画を撮るので、緊張しながら授業を受けた。
空に浮かぶ黒い雲は午後には消える。そんな風にいじめも消滅してくれればいいなと思い耽った。
ようやく放課後が訪れた。今日もいつも通り過酷ないじめを受け、精神はズタボロだ。しかし、僕の教室の前で待っていた亜子を見つけた途端、思わず笑みがこぼれる。
「よし、行くか」
そう言いながら亜子の方へ歩み寄った。
「う、うん……」
訳は分からないが、彼女はあまり乗り気ではない様子で頷く。ビデオカメラを手に持って、笠原がいると思われる1組へ行った。静かに教室を覗くと案の定、生徒がいじめられているようであった。
笠原を見ていて警戒心が薄れた頃、肩に手を置かれて小さな声で「よう」と呼ばれる。背筋が凍り、不穏な空気が漂う。まさか……笠原の仲間?
「そんな硬くなることないって」
優しい声が僕の落ち着きを取り戻させる。それでも少々の不安と警戒の入り混じったなんとも言えない感情を必死に隠した。
「宗田? なんでここに?」
宗田陽路。笠原の仲間でこいつも敵なのだが、少し前に味方へ来ないかと聞いた。その返事はまだ返ってきていない。
「まぁ、警備ってところか。誰かが『啓太は笠原のいじめをやめさせようとしてる』とか言ってきたらしい」
誰かが笠原に密告した? 学芸会に実行する計画自体は僕と亜子しか知らない。
多分、宗田の言う計画とは、『いじめをやめさせる』という物だ。だとしても、知っている人は限られている。きっと、笠原の仲間に聞かれたのだろう。
「宗田が僕たちにそんなこと教えるってことは、いじめをやめさせる手伝いをするって解釈でいいのかな?」
「あぁ。いいよ。ただ……」
宗田は急に目線を泳がせ、恥ずかしそうな素振りをした。
「どうした?」
「手伝う代わりにさ、赤西さんと俺を仲良くさせて欲しいっていうか、その……」
赤西というのは確か、亜子をいじめていた5人の中の1人で、ポニーテールの子だ。
「恋の応援をして欲しいということ?」
「うん、まぁ、そうだな。出来れば学芸会の前にはもっと仲良くなりたい。赤西をいじめっ子にしないでほしい」
いきなりのような気もするが、敵が1人味方になったのだ。このくらい何とかしよう。
さっきから口も開かない亜子に違和感を覚えた。彼女なら今の会話に入ってくると思っていたのに、入ってこないし、浮かない顔をしている。
やはり、いじめを受けて精神的に辛いのか。僕は亜子に助けられたから、僕も亜子を助けたい。心の支えになりたい。せめて、亜子がこんな暗い顔にならないようにしたい。
でも、どうすればいいのか……。
「わかった。協力する。あと、ありがとう。今日のところは帰るよ」
恋の応援についてはあとから考えるとして、今、敵がこちらに警戒しているのだ。安易に近くのは危ない。それに、亜子の様子もおかしいから今日撮影することはやめておくことにした。
「わかった。またね」
「またね。亜子、帰ろう」
亜子は無言で頷いた。僕と目も合わせようとしてくれない。学校から出ても、亜子が口を開く様子を見せなかったので、さすがに心配になって訊いてみる。
「なぁ、どうしたんだ?」
彼女は口を開く代わりに立ち止まった。俯くだけで何も答えてくれない。そのかわりに彼女の鋭く尖った目が憎悪の情を僕に訴える。
「亜子? ちょっと、本当にどうしたんだ?」
憎悪が僕に向けられた物なのではないかと思ってしまうほど、学校での理不尽を圧倒してしまいそうなほど、この世の全てを覆してしまいそうなほど強い。それと同時にか細く、今にも崩れそうなほど脆くて、存在も不安定で弱い。
そんな表裏一体の2つを兼ね備えた目に加えて僕は、衝撃的なものを目撃する。それから、ここが割と交通量が少ない場所で、辺りが静かであるおかげで、耳は音を一切逃すことはなかった。
鼻水をすする音。
強く食いしばる歯。
目から流れる一筋の涙。
亜子は泣いていた。
そして、僕が彼女の顔に驚いていると、拍車をかけるように抱きついてくる。木の葉の貧しい木から葉が剥がれ、新たに落ち葉が増える。通行人が踏み荒らした落ち葉と混ざった。
何が何なのか理解出来ない。僕が馬鹿だからだろうか。いや、僕は無知だから、何も知らないからだ。
いつもの明るい亜子に慣れすぎて、どこかで苦しんでいた彼女を知らなかった。知ろうともしなかった。結果、苦しいという感情が涙となって溢れた。僕に責任がある。どうすることも出来ないかもしれない。
「ごめん、僕、また……」
「違う、啓太のせいじゃない。私が、私が悪いの」
腕の締め付ける力が強くなる。彼女は前とは違って声を出して泣いた。彼女が泣き止むのを待つことしか出来ない自分が、すごく力不足であることを思い知らされる。痛感しながら僕も彼女を優しく包んだ。
彼女はやっと落ち着いたようで、僕の背中の方に回していた腕を解く。そして、こう言った。
「私が……笠原に教えたの」
「えっ?」
冷たい風が僕の顔を襲い、思わず目を閉じた。ゆっくりと開き、亜子の苦しそうな目を見た。
「笠原に脅されたの。本当にごめんなさい!」
亜子はランドセルの中身が出てきそうなほど深く頭を下げた。僕は彼女の肩に手を置き、顔を上げるように促す。
「それじゃあ仕方ないさ。笠原が悪いんだ。それに、僕にも非がある。これは、亜子1人で背負う問題じゃない」
亜子の瞳を直視しながら彼女のことを正当化した。すると、彼女はまた涙を流し始め、力が抜けていくのがわかる。
「ありがとう、ありがとう……」
僕はしっかりと亜子を救ってやれただろうか? 彼女には、もうこんな思いさせたくないし、こんな顔を見るのも嫌だ。そのために、僕がもっとしっかりして支えるべきだ。この先もずっと……?
顔が熱くなって、胸が激しく鳴り、自分が何をしているのか分からなくなった。風邪なのか。
「ごめんね、待たせて。私、もう落ち着いたから、大丈夫だよ」
「う、うん。帰ろうか」
意識ははっきりしている。めまいも無ければ、体も軽い。じゃあこれは何なのか。
前にも似たような症状が出た気がする。しかし、それが何なのか未だに分からない。
「私がこんなこと言うのもおかしいけど、啓太だったら絶対にいじめをやめさせられると思う。だから、その……頑張ろうね」
疑問はその言葉によって消滅させられた。
***
学芸会まであと5日となった。それなのに証拠のビデオを撮ることが出来ていなかったのだ。いじめの起きている場所には数名の警備が配置されており、撮影は困難を極めた。
それだけでなく、宗田の恋の応援も良い調子とは言えない。まず、僕たちが赤西と喋ること自体、ほぼ無理に等しかった。一度話しかけてみたものの、僕も亜子も相手にされず、突き放された。
正直、絶体絶命の状況。どこか諦めている自分もいた。今日も警備がいて撮影が不可能に近い状態だったため、現在帰宅中。
「どうしよう、このままじゃ……」
「宗田に撮影お願いするとか出来ないの?」
一緒に歩いている亜子がいろいろな提案をしてくるが、どれも実現の難しいものばかりであった。それは仕方ないことである。
「今はダメだ。宗田と赤西がもっと良い感じになってくれればいいんだけど」
確かに、宗田のような笠原の近くに居てもおかしくない人が撮る方が好ましい。しかし、条件であった恋の行方も不安定なところだから、引き受けてくれる可能性も低いし、下手なことをしたら敵になりかねない。
「もっと他に方法は……あ。居た」
「え?」
「撮影お願い出来そうな人がもう1人いる!」
そう叫び、亜子の手を握って学校へ引き返した。まだ教室にいることを願い、亜子のペースに合わせて走った。6年3組の教室へ着くが、教室には誰も居なかった。
「まぁ、さすがに帰ってるか。亜子、ごめんな急に走らせて」
「大丈夫だよ。ただ、その……」
彼女は恥ずかしげに自分の手首にそっと目を向け、すぐにそらした。
「あっごめん!」
ずっと強く握っていることを忘れており、慌てて手を離し、顔の向きをずらした。
「あれ、和田さん」
「あ! 川内!」
帰っていたと思っていた人物と目が合う。横に流れている前髪が特徴的なクラスメイトの川内だ。
「いいところに来た、川内に頼みたいことがある」
「いいですよ。なんですか?」
「笠原が、誰かをいじめている場面を撮影してほしい」
川内は少し驚き、躊躇った。
「前にも言ったけど、笠原は悪いやつじゃ……」
「これ以外に笠原のいじめを止める方法が無いんだ。いや、もしかしたらあるかもしれない。だけど、僕たちだけの力で止めるならこれが最善だと思う。どうか、協力してくれないか?」
「分かった。和田さんが言うならそうなんだね。カメラはこっちで準備するよ」
なんとか納得してくれた様子。彼は忘れ物取りに来ただけだし、急いでるからと行ってしまった。
「ありがとう。じゃあね」
手を振って別れを告げる。亜子の方を見ると、右手でいいねを作る。彼女はいいねと最高の笑顔で返してくれた。
その後、亜子を家まで送った。それがどれほど幸せなことなのか、今の自分はこれっぽっちも知らない。
亜子を家まで送った後、すぐに園へ帰らず、近くにある墓地へ行った。
今日で丁度4年。
両親の墓前に立つ度にあの惨劇を思い出す。あの光景は何度思い出しても慣れないもので、嘔吐感が込み上げてくる。
墓に向かって手を合わせて、最近の出来事を伝える。悲しみが連れて来る物を拭う代わりに空を見上げた。羊のような雲が浮かんでおり、風に吹かれてゆっくりと、確実に動いている。
僕が顔を上げている間にも時は流れていると思うと、自然の冷酷さが身に染みた。この時はまだ、未来犯罪防止機関、通称、未来機関が無かった。
未来機関というのは、人間が出す特有の波動を解析したデータに基づき、犯罪者になる危険がある人物を取り締まる組織だ。噂では未来予知ができるという話も聞く。
未来機関の設立以来、犯罪件数が80%近く減ったというのを聞いたことがある。もっと早く機関が設置されていれば、もしかしたら……なんて思う。5時30分を告げる鐘が僕を現実に引き戻す。
「そろそろ帰らないと。じゃあ、また来るね」
両親にそう言い残し、その場を去った。感傷に浸りながら静かな道を歩く。児童園に着く前には涙は収まっていた。
「ただいま」
部屋に入ると折本が僕の椅子に座り、何かの本を読んでいた。
「おかえり。今日が命日だっけ?」
「そうだよ」
その返事を聞いた折本は顔を曇らせ、呟く。
「なんで何かを失った人は、もともと何も持っていない人より辛い思いをするんだろう。持っていたってだけで幸せだったはずなのに」
折本は生まれてすぐ親に捨てられたそうだ。僕たちが産まれた頃はまだ、少子化防止対策法が無かったから仕方ないと思う。
彼の親は子供の様子を見に園へ来たことは一度も無いらしい。本人は「自分は生まれてくるべき存在では無かったのだ。生まれてきたせいで、親を不幸にした。だから捨てられたのだ」と言っていた。
「それに、持っていればいずれ、失うことを知った上で新しいものを得ようとする。どうして人間はこんな欲の強い生き物なんだろう」
「分かるよ。その考えも、気持ちも」
僕だってそうだ。いつか離れ離れになる『友達』という存在を欲しがり、得てしまった。無い方が楽だったのかもしれないが、欲に負け、奇跡を願ってしまったから。
「まぁ、死んだら何もかも無くなっちゃうから、そんなこと考えてたらキリが無いけどね。しかも、この本に書かれてたことそのまんま言っただけだし」
そう言って折本は苦笑いする。僕は折本が面白い考え方になったなと、感心していたのに、少し残念だった。
「そういやさ、俺、赤西と仲良いぜ」
「そうなのか。で、何で僕に?」
僕より身長の高い彼はニヤつきながら椅子から立ち上がる。
「啓太の独り言聞いたから。宗田の恋の応援すれば、間接的におまえの手伝いになるだろ?」
「え、ありがとう! じゃあ、お願いします」
独り言か、聞かれたのが折本でよかった。次からは気をつけないといけない。こんなので笠原に計画がバレては洒落にならない。
「おう! 任せておけ」
そう言って折本は親指を立てる。頼もしい仲間がまた増えた。あと数日で学校からいじめが無くなる。生きやすくなるのだ。平和な学校生活が楽しみで仕方がなかった。
学芸会まであと4日。
「――これらはここ最近、本当にあった話ですので、みなさん、気をつけてください」
朝の全校朝会中なのだが、いじめを止める計画を見直したりしていて話の内容をあまり理解していなかった。たしか、優秀な生徒が連続で行方不明になってるとかなんとか。
その話はともかく、学芸会当日、今いる体育館で計画を実行する。劇が終わった瞬間にプロジェクターとパソコンをギャラリーへ運び、スクリーンを出す。ここまでやるための人数が圧倒的に足りない。
僕たちの劇が終わった後に映すのは不可能である。前もってギャラリー付近に置いておく必要があるが、先生たちに見つかれば意味が無い。
それから、僕は物語終盤に舞台に立つことになっている。幸いにも、亜子はフリーだ。彼女にプロジェクターの起動等は任せるつもりである。そんなことを考えているうちに朝会は終わり、教室に戻った。
休み時間にはノートに体育館の内装を描き、脳内シミュレーションをする。休み時間、いじめっ子たちが邪魔で仕方がなかったが、ある程度の想像は出来た。
体育館に入ってすぐ右の方にギャラリーへと続く階段がある。しかし、当日はそこから入ることは出来ないだろう。
もう一つ、運動場側にある外階段がギャラリーへと繋がっている。そこは生徒が舞台裏へ行くための手段として使われるから無理。と思ったが、僕たち6年生の劇は学芸会最後の演技だ。
その外階段を利用すればギャラリーへと運ぶのは簡単だ。亜子1人で移動させるのはさすがに厳しいから、あと1人を誰にするかも決めなければならない。
外階段の近くにプロジェクター等を隠せる良い場所がある。前日くらいに隠せば大丈夫だろう。
「何してんだ?」
簡易的に書かれた体育館の見取り図を覗いてきたのは関崎だ。
「てか、体育館は2階にもトイレあるだろ。書き足せよ」
「そうだったな。ありがとう」
特にトイレは必要ないと思うが、一応付け足すことにした。
「んじゃ、またな」
そう言い残していつものようにどこかへ行こうとしていた関崎は、何を思ったのか急に止まった。そして。
「そこは小道具置き場になってるぞ」
意味ありげな言葉を呟いて行ってしまった。
「小道具置き場? 何の話だろ」
理解出来ないその言葉に戸惑うが、考えるだけ無駄だと割り切った。関崎はたまに意味不明な言葉や話をして、去っていくのだ。今回もそういった類いのものだろうと思う。
宗田は劇で何の役もついていない。だから亜子と一緒にプロジェクターの準備をしてもらおうと思った。その協力を得るために、折本が良い感じにくっつけてくれればいい。ビデオは川内が上手く撮れていれば何の問題も無い。
あとは過酷ないじめを耐えきるだけ。
***
学芸会の2日前。そして、迎えた放課後。
明日は休みで、今日でいじめが最後と考えれば苦しいことはなかった。今までいじめを受けていて、大怪我をしなくて良かったと思う。
亜子もなんとか頑張ってくれた。彼女もいじめが無くなることを楽しみにしている。
昨日川内からもらった動画を見てみたが、とても良かった。いじめられていた人には申し訳ないが、これもいじめを無くすため。少しばかり罪悪感はあった。
宗田と赤西の仲も良い感じになったらしい。宗田がニヤニヤしながら言ってきたのだ。折本に何をしたのか聞いてみたが、教えてくれなかった。たった数日で2人をくっつけた方法に興味があったが、仕方ない。
それから、宗田も亜子と一緒にプロジェクターの設置等を手伝ってくれると言ってくれて、やる気満々の笑みを浮かべていた。
準備は整った。
あとは明日学校に来て亜子と最終確認を取り、プロジェクターを隠すだけ。
翌日。
指定した時間に亜子と学校で合流した。本番前日とはいえ、やはり準備が万全であるため、そこまで緊張していない。むしろ、勝ちを確信していた。
「おはよう」
「おはよう。じゃあまずはプロジェクターの使い方を教えるね。ついでに動画を見てみるか」
体育館の裏側で試しにプロジェクターを起動させた。このプロジェクターは最新型で、パソコンを必要としないのが便利である。
体育館の壁に向けて映し出してみた。すると、『学芸会に来ていただきありがとうございます!』というタイトルが表示される。そして可愛い動物の絵が踊り始め、動画は終わった。
「え? どうした?」
おかしい。おととい川内から動画をもらってすぐにプロジェクターを使った。その時はちゃんとした動画が流れたのだ。
「啓太?」
「ごめん。僕もよくわからない。けど、何かおかしい」
いきなりすぎて混乱してしまう。こんな急に動画が別の動画に変わるなんて……そういえば。
ある事件を思い出した。それは一種のウイルスがプロジェクターを狂わしたというもの。
とある会社の会議中に使われたプロジェクターが、そのウイルスに感染していたらしい。会議の直前に映し出す画像をチェックしている時は普通に稼働した。
しかし、会議が始まりプロジェクターを使用すると、何故か設定した画像とは全く違う画像が表示されたとのこと。
これがきっかけで会社が1つ倒産しそうになったという事件である。借りたプロジェクターがこれと似たようなウイルスに感染しているのなら正直絶望的であった。
「もしかしてあの、テレビでやってたウイルス?」
亜子も同じ事件を知っていたらしい。
「多分そうかもしれない。どうしよう、これじゃあ作戦が台無しだ」
さっきまでの余裕は無くなった。とりあえず今日中に代わりのプロジェクターを用意しなければならない。
「とりあえず隠す場所に持って行った方がいいんじゃない?」
「そうだね」
次は体育館の隣辺りにある物置へ行く。普段から鍵はかかっておらず、中に物が置いてあるわけでもない。
「嘘だろ……」
その物置の中には学芸会で使用する小道具や背景等の物がある。それは物置にプロジェクターを隠せないことを示していた。
「なんで……」
この物置が普段使われていないから学芸会の時でも大丈夫だろうと思っていたせいだ。物置をここに置く必要性を考えればすぐにわかったことなのに。
「亜子、ごめん。本当にごめん……」
自分の弱さが鬱陶しい。そして憎い。ここまで来たのに、ここまで協力してくれた人たちがいたのにどうしてもっと確実な手段が思い浮かばなかったのか。
悔しくて涙が溢れそうになり必死に堪えた。歯を食いしばり、他に隠せそうな場所がないか考えた。でも、そんな場所どこにも……。
もういっそ諦めた方が楽かもしれない。結局はいじめが無くなる根拠はどこにもないのだ。
「まだ諦めたらダメ!」
「へ?」
声が変に裏返った。
「せっかくここまで来たんだよ? プロジェクターは他から借りればいいし、隠す場所だってきっとある!」
「でも」
「啓太はそれでいいの? 私はいじめられてる啓太なんて見たくないし、私もいじめられるのは嫌。いじめを受けてる人を助けられるのは啓太しかいないんだよ? そんな人たちを放っておいていいの?」
後ろからかけられる力強い励ましで冷静を取り戻した。
「そうだよね、せっかくここまで来たんだ。最後まで諦めるわけにはいかない」
涙を拭って、ひたすら考える。この状況を打開する方法を。
とりあえず先生のプロジェクターを物置に置く。寒さを掻き分けて体育館裏から出て花壇へ出た。運動場の方ではサッカーの試合が繰り広げられている。
「ねぇ、旧型のやつではあるけどプロジェクターとパソコン家にあるんだけど。借りてくる?」
亜子が呟いた。
「ほんとに? じゃあお願いしてもいい?」
もっと早く言ってくれていれば、あんな恥ずかしい姿を見せずに済んだのに……と心の中で苦笑いした。
「そのかわり一緒に家までついてきてくれない?」
「もちろんいいよ」
「じゃあ早速行こうか」
それから一旦学校を後にして、亜子の家へ向おうとしたその時だった。
「あっ、中松先生!」
目の前にプロジェクターを貸してくれた中松先生がいたのだ。たしか、中松先生はサッカー部の顧問であった。相変わらず、太陽に負けないくらい頭は光り輝いている。
「おや、啓太さんですか。休日に学校来て、どうしたのかね」
「あ、いえ、少しやることがありまして。それよりも、プロジェクターがウイルスにかかったみたいで……。本当にすみません」
頭を下げ、謝った。ウイルスに感染したということは、このプロジェクターが使い物にならなくなったことを示している。それなのに先生は一切動揺せず、いつものように冷静だ。
「あれは、私がプログラムしたのです」
何を言っているのか理解できなかった。先生は僕を置き去りにして話を続ける。
「あのプログラムを解除する方法もありますが、それは独自の研究で得たことなので、教えるわけにはいきません。本当は明日発動するように仕組んだつもりだったのですが、やはり上手くいかなかったようですね」
ここまで言ってやっと理解した。先生があのウイルスを仕掛けたのだ。味方だと思っていたから、余計に辛い。僕の計画をどこかで耳にした、あるいは、僕が何かしらのヘマをして気づかれたのどちらかだろう。
「どうしてわかったんですか?」
「長年の経験と勘ですかね。まぁ、私だっていじめを見て見ぬ振りするのは辛いです。しかし、私にだって妻や子供を養うためのお金が必要なんですよ。啓太くんなら理解できるでしょう?」
「……そう、ですよね。では、プロジェクターはすぐに返しますので」
「物置にあるのは分かってます。自分で取るので心配しなくていいですよ。それから、あなたには期待してますので。では」
先生はサッカー部の元へ戻っていった。たしかに、先生にも事情があり、思うように動けないことは考えれば分かることである。
「何の話してたの?」
「大丈夫、何でもない。とにかく亜子の家に行こうか」
亜子は会話の内容を理解できていなかったらしいので、歩いている間に説明した。彼女は「大人も大変なんだね」とコメントして、寂しげな表情を浮かべる。
一般的な二階建ての住居が連なっている道のど真ん中に亜子の家はある。正直、この辺にあるほとんどの家は似たような見た目をしていて見分けがつかない。
「いつもながらどれが亜子の家か見分けつかないな」
「私の場合、慣れてるから感覚で分かるんだけど、たまにボーっとしてると間違える時もあるんだよ」
「そっかぁ、やっぱ、毎日見るような家でも、ここまで似てると間違えてもおかしくないね」
「ほら、ここ」
表札に南原と書かれている家の前まで来ると亜子は立ち止まった。彼女がインターホンを鳴らすと、父親らしき人物がドアを開く。
「おかえり。あれ、その子は友達?」
「あ、うん。えっと……」
亜子が戸惑った様子でこちらを見てきた。多分、自己紹介してという意味なのだろう。
「こんにちは、亜子の友達の和田啓太です」
「おぉ、君が啓太くんか。話は亜子聞いてるぞ。たしか、亜子がいうには――」
「ちょっと、お父さんやめて!」
急に亜子が父親の話を中断させた。
「あー、すまないすまない。まぁ、入ってくれ」
父親はニヤニヤしながら亜子の顔を覗こうとするが、亜子はそれを嫌がるように顔を伏せる。そして、彼女は僕を玄関まで案内した。
「ねーお父さん、プロジェクター貸してほしいんだけど。いいかな?」
「プロジェクター? 何に使うんだよ」
「その、啓太が使いたいって……」
「わかった」
そう言って亜子の父親は2階へ上がっていった。すぐにプロジェクターを抱えて降りてくる。それは新型の物で、パソコン要らずの物であった。
「ほれ、壊さないように気をつけてな」
「ありがとうございます! よし、じゃあ……どうしよう。どこに隠すか考えないと」
プロジェクターを確保することはできた。しかし、隠す場所がしっかりしてなければこの作戦は失敗になる確率が高くなる。物置は小道具置き場になってるから……。
「小道具置き場……? そういや、関崎がそんなことを言ってたような。何で知ってたんだろ」
「関崎? えっと、前に話してた不思議な人?」
「うん。彼が『そこは小道具置き場になってるぞ』って言ってた。そういやあの時、2階にもトイレあるって指摘されたな。トイレに隠す?」
もしかしたら案外良い方法かもしれない。
「トイレ? 本気で言ってるの?」
「あぁ、トイレに机ごと置けば大丈夫だろう。どうせ今日から本番までトレイを出入りしたり、ましてや掃除用具入れの場所を確認することなんてないと思う」
「なるほど、たしかに」
「よし、早速行くか」
そう言って家を出ようとした。
「まぁ、待て。ちょうど昼飯出来上がったところだから、啓太くんも食べて行くといい」
亜子の父親がキッチンから顔を出し、呼びかけた。
「そんな、いいんですか?」
「まぁ、いいってことよ。だって、将来、亜子の――」
「あー! 私も準備手伝う」
亜子は父親の話を遮るように大声を張り上げた。なんかその様子を見ていると笑えてくる。亜子は何か言われたくないことがあるが、父親がそれを言おうとしているのだろう。
家族っていいな。僕の父はとにかく力が強く、それなり体力もあり、よく肩車してもらっていた。父と同じ高さから眺める景色は色鮮やかで、遠くまで見えるし、何度見ても飽きないほど素晴らしいものであった。
「お邪魔します」
食事の準備がされているテーブルの席に座った。亜子が残りの食器を運んでくる。テーブルに食器を置く彼女の横顔に目が行った。いつも見ている横顔とは違った美しさがあり、つい見とれてしまうほどの繊細な雰囲気である。
「ど、どうしたの? 顔になんなついてる?」
こちらの目線に気がついた亜子は不安げに問う。
「いや、何もついてない、大丈夫だよ」
「ならいいんだけど」
彼女はそう言いながら僕の向かいに座った。その隣には亜子の父親が座る。目の前に並べられた料理は野菜たっぷりのカレーライス。カレーのルーに映るのは過去のくだらない話と、邪魔でしかない固定観念だった。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
亜子に続いて僕も手を合わせる。野菜やご飯をスプーンですくって口に運ぶ。食事しながら何気ない話をして、楽しい食事の時間を過ごすことができた。
「ご馳走さまでした」
食事を終え、食器を片付けようとすると、「置いといて」と亜子の父親に言われ、何も触らないことにした。
電話にメールの着信音が鳴った。父親はそのメールを確認する。
「母さんからだ。亜子、2階にある母さんの仕事道具持ってきてもらっていい?」
「わかった。ちょっと待っててね」
父親の言葉を聞いて亜子はすぐに2階へ上って行った。
「啓太くん、変なことを思い出させてしまうだろうが、許してくれ。津久田 蒼馬(つくだ そうま)って知ってるか?」
「はい。知ってます。でも、どうしてその名前を?」
津久田蒼馬という名前を聞いただけで、吐き気、恐怖、憎しみ、怒り……たくさんの感情が渦を巻きながら現れる。
「それは俺の職業に関する話になるから直接的なことは言えないが、一昔前の警察と思ってくれればいい。それよりも、津久田のことで知ってることを教えてほしい」
亜子の父親は真剣な表情で頭を下げる。どうして津久田のことを知りたがっているのか、わからない。しかし、何故か訊けば職業の話をする必要があるだろうから、何も質問はしないことにした。
「えっと……」
「正直、よく覚えていないんですが、優しくて面白い人でした。だから、あんなことするなんて想像もできませんでした」
そう、津久田蒼馬は僕の目の前でいたぶるように両親を殺した人だ。彼について知りたいなんておかしな話であるが、まだ捕まっていないということを考えれば調べる必要もある。
津久田が捕まっていたとしたら、あるいは死んでいたとしたらそんなことを聞く必要があるだろうか。多分ない。
「そうか。津久田と関わっていた人は口を揃えてそう言うんだ」
2階から慌ただしい足音が聞こえ、亜子の父親は「このことは亜子に」と言い、人差し指を口に当てる。
「お父さん、これでいいかな?」
「あぁ。ありがとう」
亜子は大きな箱を両手で抱えていて、その様子を見た父親はテーブルにある食器を流しに運んだ。亜子は片付いたテーブルに箱を置く。父親はその箱を開けて中にあるたくさんの袋を一つ一つ確認し、お目当ての物を見つけたらしく、取り出した。
袋の中には粉末や液体の入った瓶、メスやピンセット、注射器といった医療器具が入っている。
「これを噛んで食べてごらん」
取り出されたのは錠剤のような物だった。嫌な予感もするが、亜子の父親が僕に毒を食べさせる利益も無いだろうし、安心して食べていいだろうか。
躊躇っていると父親が急かしてくるので、仕方なく食べることにした。父親の手のひらから取ってみる。飴の半分くらいしかないそれは、ラムネにも見えた。
口に入れると、思った以上に苦くて眉間に皺を寄せ、危うく吐き出してしまうところであった。それを我慢し、さっさと噛んで飲み込む。
噛み砕いて小さくしたはずなのに、喉を通っているのがわかるし、通るたびに全身が痺れるような感覚に襲われる。もしかして、騙された? と思ったが痺れは飲み込む時だけ生じ、喉を通過しきると痺れはなくなった。
「……何ですか、これ」
「妻に言われ――おっと、口が滑ってしまった。なぁに、気にすることはない」
「そうですか」
妻に言われたと言おうとしたのだろうか。もしかしたら、病院で働いているということは、お世話になったこともあるのかもしれない。
「啓太、ご飯も食べたし、そろそろ行く?」
「そうだね。早めに行った方がいいだろうし」
温かい部屋に別れを告げ、学校へ向かった。今までたくさんのことがあり、まだまだ不安もあるけど、僕たちは進む。僕らが革命を起こし、明日から平和な世界が訪れると願っている。
体育館に置いてある机を一つ持ち出し、2階へ運び、亜子にお願いして女子トイレの掃除用具入れに置いてもらった。体育館ではバレー部の練習が行われていたこともあり、その作業を慎重に取り掛かった。
***
学芸会当日。
どれほどこの日を待ち望んでいたか自分でも測り知れない。亜子と宗田には作戦の最終確認もとった。まず、劇が終盤近くなったら先生に腹痛を訴えて、合唱の台から降りて、プロジェクターの準備をしてもらう。プロジェクターの使用方法についてはしっかりと教えた。きっと、上手くいく。
教室で他の学年の演技が終わるのを待っている間に、たくさんのことを思い出す。亜子をいじめから助けたこと、僕もいじめられて我を忘れて亜子に嫌な思いさせたこと、ルームメイトの折本やクラスメイトの関崎と川内が僕のことを応援し、手助けしてくれたこと……いちいち数えていたらきりがないほどある。
みんなの助けがあったからこそ今日までやってこれた。特に亜子が側に居たことが一番の支えだったと思う。そんなことを考えていると、僕たち6年生の出番が近くなり、舞台裏へ移動する。
作戦が成功するかどうかのドキドキと、学芸会という緊張感に押しつぶされそうだ。これが成功すれば……という期待に胸を膨らます。
僕たちの前のプログラムが終わった。その少し前までおしゃべりが酷かったものの、みんな緊張し始めたようで周囲はだんだんと静かになった。
「プログラム最後は6年生による劇です。劇では丘ノ市に代々伝わる物語を披露します。今回はツグネの倉智という人物の目線で物語が進行します。普通とは違った目線での物語を楽しんで下さい」
放送が終わると、舞台の幕がゆっくり上がり始めた。
さぁ、革命の始まりだ……!
なんて大袈裟なことを心の中で叫んだ。
『これは100年以上昔の話です。ここ、丘ノ市がツグネとソノミという村に分かれていた時のこと。ツグネである事件が起きました』
舞台の中央に出てきたナレーターが言い終えると、幕が上がる前から準備していた男子生徒数名にスポットライトが当たる。
豪華な王座に座り、派手な衣装を着た男子を取り囲むように兵隊の格好をした男子が4人いる。
「宗鳳様だからといって、罪を見過ごすわけにはいきませぬ」
「宗鳳様が罪の無い市民を何人も殺したことはわかっているんです」
「その証拠に、宗鳳様の服の切れ端が現場に落ちていたのです」
「言い逃れは出来ませんので、おとなしく捕まってください」
それぞれが台詞を言い終えると、持っている槍を宗鳳へ向ける。宗鳳は慌てて手を上げて抵抗する気がないことを訴えた。
「待て、私はそんなことやっていない。さては、倉智が私を嵌めるために仕組んだ罠だな?」
下手から2人の兵隊が出てきて、宗鳳を囲む兵隊に矛を向けて言う。
「そうだ! 倉智の罠に決まってる!」
「宗鳳様、大丈夫ですか」
「私は大丈夫だ。それよりおまえたち、矛を下げろ。戦って何になる。私が捕まれば誰かが死ぬこともない。そうだろ?」
宗鳳が体育館を震わせる声で訴えかける。
「そんな、宗鳳様……」
「いいんだ。ほら、私を牢獄へ連れて行け」
兵隊たちは名残惜しい様子で敬礼した。宗鳳を囲んでいる兵隊が宗鳳を連れて牢獄へ向かおうとした時、女性の声が聞こえる。その声は宗鳳が牢獄へ入れられるのを止める声であった。
「待ってください、宗鳳様は何も悪くありません」
その女性は華やかな格好とは言えない、貧相な服装をしていた。農民くらいの人だろうが、どうして城内にいるのかはわからない。
「何で平民が城内にいる。すぐに追い出せ」
倉智が怒鳴る。
「私は見たのです、倉智様が市民を殺しているのを」
女性は怒鳴り声に負けないくらい力強い声で反撃する。
「なんだと、嘘をつくな!」
「ソノミ神に誓っても、嘘はついておりません」
ソノミ神とは、古くから言い伝えられている神様のことで、このソノミという名前がそのまま地名になったそうだ。
「こんなことを言われても倉智様は、自分の罪を認めないのですか?」
「こいつも一緒に牢屋送りだ。連れて行け!」
その言葉で兵隊たちが宗鳳から意識が逸れた瞬間、走り出した。ただでさえ動きにくい服装なのに、一所懸命に城の出口に向かって走ったのだ。
「ま、待て!」
兵隊が慌てて後を追う。
『この後も、宗鳳は逃げ続けました。倉智は嘘つきで、犯罪者の宗鳳を追いました』
そのナレーションに続いて、兵隊と倉智が村中を探し始める。いろんな人に宗鳳を見かけなかったか訪ねて周った。その間、横側に立っている生徒たちは、慌ただしい曲をリコーダーで演奏する。
舞台上の生徒が行ったり来たりを繰り返し、曲が終わると、ある女性は言った。
「見知らぬ男性に連れられてソノミへ行くのを見ました」
それを聞いた倉智は頭を抱える。
「まさか宗鳳がソノミと協力していたとは……。このまま生かしておいたら危険だ。なんとしても宗鳳をソノミから引っ張り出すのだ」
ソノミとツグネは昔、仲が悪かった。それで、倉智は宗鳳が敵国と協力していると知り、余計に許せなくなった。
「わかりました。私たちも協力します」
「もう宗鳳様にはついて行けません。なので倉智様のお力になれれば光栄だと思います」
「おぉ、頼もしい。では、お願いしたい」
宗鳳の兵隊が倉智に忠誠を誓った。
宗鳳は村で最高権力者、倉智は村では準最高権力者であり、この2人の仲は良いものとは言えなかった。目指す目的ややり方の誤差が仲の良くない原因だ。
少しばかり宗鳳側に付く者が多いために、宗鳳が最高権力者となった。しかし、この事件を機に、宗鳳から倉智の元へ行く者が多かった。
「では、作戦を立てよう。何か案は無いか?」
みんな腕を組んで唸り始めた。すると、1人の兵隊が呟く。
「武力で脅してみるのはどうでしょうか?」
「良い案だ。では、早速、ソノミの長に『宗鳳を出さないなら攻め込む』という文書を送らねば」
そのセリフが終わると、場面転換が始まった。横からリコーダーの心地よい音色が聞こえる。
『こうして、倉智はソノミへ文書を送りました。この文書が届いたソノミは、武力で抵抗しましたが、ツグネの戦略には敵いませんでした』
ツグネの長とその側近が兵隊に囲まれている場面になった。ツグネの長である小奈代という女性は、そこまで飾った様子のない格好をしている。
「おまえたちが企んでいた計画はもうわかっている。ツグネを支配しようとしているのだろ! 大人しく宗鳳を出せ」
倉智が一歩前に出る。場所は城内のようで、小奈代は玉座に座っていた。
「そうだぞ。こんなことして恥ずかしくないのか!」
それに続き、兵隊も一歩前に出た。
「……仕方ないですね。せめて道連れにしましょうか」
小奈代が呟くと、急に城が揺れ始めた。倉智側の兵隊が動揺している間に、小奈代たちは逃げ出そうとする。
「おまえたち! 惑わされるな! この城は崩れない!」
倉智は崩れそうな城から逃げようとしている兵隊たちに向かって言う。倉智の言った通り、揺れはすぐに収まる。
「よくも騙したな!」
小奈代に向かって兵隊の一人が走り出す。
「小奈代様、早くお逃げになられてください」
「小奈代様には一切触れさせません」
しかし、護衛が道を塞ぎ、小奈代はどんどん奥へと逃げて行く。
その妨害を上手く擦り抜け、倉智が小奈代を捕まえた。
「安心しろ、おまえたちも、宗鳳も殺しはしない。だけど、罪は償ってもらう!」
「そうですか。宗鳳!」
小奈代がその名前を呼ぶと、渋々と宗鳳が現れる。
「私たちは自己の利益のためだけに罪を犯してしまったのだ。それに、もう逃げられぬ。ここは素直に捕まっておくのが命のためでもある」
「そうですね。わかりました」
そう言って宗鳳は捕まった。
『こうして、罪人である宗鳳を捕まえ、また、ツグネを支配しようとしていた小奈代も捕まえることができ、ツグネには平和が訪れました』
横側から、またリコーダーの音が聞こえる。そして、リコーダーの音が止んだと思えば、生徒が舞台に集まり、合唱する。
みんな仲良く手を繋ぎながら楽しそうに歌う。その姿を見る者も楽しい気分になれただろう。
歌も終わり、幕がゆっくりと降りる。それと同時に白いスクリーンも下がってきた。
作戦は上手くいったらしく、舞台の反対側のギャラリーには亜子と宗田の姿が見えた。プロジェクターの準備も出来ているようだ。
幕が下がり、観客から僕たちの姿が見えなくなる直前にスクリーンを降ろすため舞台裏へ走って行き、ボタンを押す。
スクリーンが下までくると、音声が流れる。
『おい、おまえのせいでミスったじゃねーか! この野郎』
『痛い! やめてくれよ』
スクリーンには痛々しいいじめの動画が流れているだろう。強引な理由をつけて、自分よりも弱い者を殴ったり蹴ったり。時にはゴミ箱に入らせたり、給食の牛乳をぶっかけたり、自殺のモノマネをさせたりと、一つ一つのいじめが凶暴である。
『うぅ……』
『おまえ見てるとムカつくんだよ!』
現場の音声を聞いてるだけでも吐き気がする。今まで受けたいじめを思い出してしまうからだ。でも、その恐怖も今日で終わり。そう思えば気が楽だ。
「流しているのは誰だ! 早く止めさせろ!」
先生の叫び声が聞こえる。しかし、その先生の声は誰にも届くことはないし、手遅れであった。舞台裏では生徒たちが何が起きているのかと騒いでいる。
「おい、どういうことだよ! うちの息子はいじめられていたのか!」
「そうですよ! なんてことをしているんですか!」
「こんな危なっかしいことしているなんておかしい!」
「人として当たり前の教育もできてないのかよ!」
親御さんたちの怒りは体育館内を埋め尽くし、もう、誰も止められないほど騒がしくなっていた。
「あー、みなさんお静かに……」
校長先生のか弱い声は誰にも届かない。そこに現れた1人の女性が校長先生のマイクを借りる。
「静粛にお願いします」
この騒がしくなった場を、一言で沈めた。威厳ある声質と、全てを押さえつけるような口調。マイク越しとはいえ、こんな芸当が出来る女性は知らない。
「私は笠原 鈴(すず)と言います。今の動画に映っていたいじめっ子の母親です」
「母さん……?」
隣で笠原が間抜けな声を漏らす。彼は自分の母らしき人物の発言に違和感を覚えたらしく「俺がいじめてる動画? どうして?」などとぼやく。
「どういう育て方したらあんな凶暴な子どもに育つのですか! 私の息子がいじめられてたんですよ? どうしてくれるんですか!」
冷静を欠いた母親が絶叫する。それに対して、マイクを持った女性――笠原の母は落ち着いた調子で申し訳なさそうに頭を下げる。
「本当に申し訳ありません。私の息子がいじめをしていたことは事実だと思います。ですが、先生方はそれを知っていたでしょう?」
「えっと、私は校長の我如古と申します。もしも、いじめがあったなんてことが起きたら、私たち学校側はすぐに対策や指導を行います。しかし、いじめの報告はほとんどありませんし、誰かが勝手に作って流したいたずらなのではないかと思います」
校長先生は慌てて弁解する。校長先生の発言により、また体育館がざわついた。
「それでは、教師がいじめを見て見ぬ振りしていたということを未来機関に訴えますよ」
その言葉に校長先生は動揺したようで、未来機関に訴えない方向に持って行こうと、必死に説得するが、全て意味を成さなかった。
「すみません、私たち、教師側の視野が狭いばかりに、たくさんの生徒たちを傷つけてしまうことになり、本当に申し訳ありません」
「私たちも皆さまに不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」
「申し訳ありませんでした」
校長は職を失わないためにも、親御さんたちの前で頭を地につけた。それに続いて笠原の母親と、父親らしき人物が改めて頭を下げた。
「あと、先生方に言っておきますが、この動画を流した人を探すのはやめてください」
「は、はい」
言われて気づいた、亜子たちはギャラリーにいて、そこに先生が駆けつければ動画を流した犯人がバレてしまう。まずい。急いで外階段からギャラリーへ登ろうと、舞台裏から外へ出ると亜子の父親がいた。
「啓太くん、久しぶりだね。お疲れ。素晴らしい演技だったじゃないか」
「あ、ありがとうございます」
「大丈夫だ、亜子の心配はいらない」
「どうして知っているんですか?」
心を見透かされている気がした。いや、実際に亜子の心配をして外に出たわけで、それを待っていたかのように亜子の父親がいる。
「ヒントを1つ教えよう。これほどの大騒ぎを起こそうとしたら、未来機関が動くぞ」
「なぜそれを知っているんですか? え、ということはもしかしてあなた……」
「まぁ待て。わかったらそこまでだ。口に出されると困るんだよ」
亜子の父親は未来機関の一員ということだろうか。だからさっき、笠原の母親はあそこまで冷静だったのだろうか。多分、前もって笠原の母親に、今日のことを伝えてあったということだろうか。そうであれば「この動画を流した人を探すのはやめてください」と言った理由も合点がいく。
「それよりも、他にやることないのか?」
「そうでした、もう一つやることがありました。ありがとうございます。では、また今度」
僕は派手で、動きにくい衣装を揺らしながら笠原熊雄の元へ向かった。彼は相変わらず、ほうけた顔で舞台裏にいた。僕の知る限り今までずっと甘やかされて生きてきた彼にとっては相当なダメージだったのだろう。
「笠原」
「何? なんだよ」
いつもの威圧感はどこへ消えていったのか、弱々しい声を口調でごまかしているような返事であった。
「もう、いじめはしないよね?」
「何言ってんだよ。所詮おまえは卑怯で、弱虫の悪者でしかないんだよ、いじめられて当然だろ」
「……やっぱり知らないよね。あの劇にはね、続きがあるんだよ。倉智は1番になるため、宗鳳を陥れたっていう真相が明かされる続きが――」
そう、僕は今回劇でやった原作を読んでいるため、この後の話や真実に近いものを知っている。
小奈代と宗鳳は村を一つにしようという計画を練っていた。通貨の統一や物資の共有、制度や法律についての話だ。それを良く思わなかった倉智は宗鳳を陥れるが、小奈代が真実を村人に公表するため、倉智を罠に嵌める。
誰もいない場所と錯覚させ、腹の内を吐き出させる。その真相を知った兵隊たちは、倉智を牢獄へ入れ、宗鳳を出したという話だ。表面だけで人というものは計り知れないということだ。それから、見方によって善人になったり、悪者になったりするということ。
これらを笠原に説明した。それを踏まえて僕と笠原の立ち位置を提示する。いじめる立場といじめられる立場。一見すると前者が悪だが、そうでもないことを、僕は知っていた。
本当の悪はない。本当の正義もない。
「言いたいこと、わかってくれたかな?」
笠原はまだ腑に落ちない様子であった。だから、できる限り噛み砕いた形で説明することにした。
「えっとね、笠原は過去にいじめられていた経験があって、自分がいじめられないために他の人をいじめ始めた。違う?」
「なんでそれを……」
笠原は驚いたあと、少し暗い顔をした。いじめられていた時のことを思い出したのだろう。笠原だって苦しんでいたのだ。罪悪感だってあっただろう。でも、自分を守ろうと必死だったからこんな風になった。負の連鎖である。
「だから、さっき言ったじゃないか。表面だけではなく、中身も見ないとって。現在だけでなく、過去や未来も見るって」
「そうか、そういうことか。やっと理解できたよ。でも、いじめをやめたら、俺がいじめられる。だから仕方な――」
「――なくない!」
彼の言葉を僕の声で上書きした。
「笠原がいじめられるなら、僕が守る。絶対に。だから大丈夫」
「おまえ、正気か? おまえのこといじめていた俺にそんなこと言うなんて、バカとしか思えない」
「あぁ、バカでいいさ。僕はただ、君とも仲良くしたいだけだ」
それは本心であった。彼の過去を知って初めて抱いた感情だ。同じ痛みを知っているし、彼だって悪意があっていじめをしていたわけではない。ならば、共にわかり合うことは可能だと思う。
「仲良くって……いいのかよ、おまえは。俺にやり返したいとか思わないのか?」
「動画流したの僕なんだよ。だから、すでにやり返してるんだよ、一応。でも、またいじめを再開するっていうなら、容赦はしない。そうだね、これは脅しだって捉えてくれても構わない」
「おまえってやつは……。啓太だっけ」
「そうだよ」
呆れた様子で、笠原が僕の名前を確認する。頷くと、手を差し伸べてきた。
「これからよろしくな」
「こちらこそ、よろしく」
僕は笠原の手を握り、醜い争いに終止符を打った。
***
体育館のゴタゴタも収まり、無事とは言えないが、なんとか学芸会を成功させることが出来た。片付けも終わる頃には日が暮れ始めていた。
「色々あったけど、楽しかったね」
「まぁ、そうだな。楽しかった。新しい友達もできたし」
亜子と2人で坂を登る。帰り道の途中、ある場所へ寄り道しようということになり、坂を登っている。ひんやりとした風が吹いて、時折寒さに体を震わせた。
「えー、いいな。友達できたんだ」
「昨日の敵は今日の友ってね」
「なるほど、笠原と友達になったってことね。ということは、笠原はいじめをやめるって?」
「うん、やめるんだってさ」
「やっぱり、啓太ならできるって信じてた」
「ありがとう。なんか照れ臭いな……」
「あ、着いた!」
着いた場所は丘ノ第二公園にある展望台の頂上。そこからは丘ノ市全体を見下ろすことができ、とても爽快である。
「すごい景色だね」
夕日に照らされている亜子の横顔から目を逸らす。なぜか、亜子の横顔を眺めていると胸が踊り、口が震え、喉が渇き、体が燃えるような感覚に襲われる。そして、次の瞬間には手を伸ばしたい衝動に駆られるのだ。
この不思議な現象から逃げようと景色に集中する。
「そうだね。この景色、何回も見てきたはずなのに、今日はいつも以上に清々しく感じる」
「いじめられることがなくなったからじゃないかな」
「そうかも。それにしても綺麗だなぁ」
「うん。本当に素敵だね」
ここ数日の間にたくさんのことがあった。その一つ一つの出来事に感謝すべきだと思う。どれか一つでも欠けていたら、今の僕はいないだろうから。
「今度は、もっと高いところに行きたいな、なんて」
彼女は叶いもしない冗談を言ってしまったかのように、苦笑いして意見を引っ込めようとした。
「そうだね、機会があれば、潮見坂を登ったところにある展望台に行ってみるか。あそこはここよりも高いと思うよ」
「いいね! その時も同じように、ふた……」
何か言いかけて何かに引っかかったように黙り込んだ。
「ん? 何?」
「ごめん、なんでもない」
「そっか。じゃあ暗くなってきたし、そろそろ帰ろうか」
街灯が点々と灯っていくのがわかる。その光景を見ていると、帰ろうとしていた気持ちがいつの間にやら無くなっていた。
「いや、やっぱりもう少しだけ……」
空では星が光って雲が流れている。月は綺麗な円を描き、太陽の光を反射させて、光の一部を地球へ届けてくれている。
「啓太、私を救ってくれてありがとう」
僕は生きているのだ。
もう、僕はこの感情無しで生きていけなくなってしまっただろう。
学芸会から約4カ月経ち、とうとう小学校の卒業式を迎えた。熊雄とはすっかり仲良くなり、その周囲の人たちとも仲良くなれた。
亜子もいじめていた人たちと普通に話せるようになった。そして、今まで1人でいた時間が馬鹿みたいに思えるほど楽しい毎日だ。中学はみんな同じ丘ノ中学であるため、寂しいという感情はそこまでない。
「卒業式が終わったら、決着をつけようじゃないか」
陽路がただでさえ鋭い目に力を加え、ボサボサ髪の間から覗かせる。睨みつける目の先にはハゲで、いかにも野球少年っぽいオーラを放つ渉がいる。
「あぁ。いいぜ」
彼は謎の挑戦を受ける。まだ春だというのに、この2人の周りは燃え上がっている。
「啓太、俺も混ざっていいですかね?」
「どうして僕に聞くんだよ」
「え、だって、陽路たちは真希への告白できる権利を巡って戦うんですよ? 僕が勝てば啓太への告白できる権利ってことで」
真希とは赤西のことだ。
「大夢は本当にどストレートだね。まぁ僕はいいけど」
川内大夢は、なぜか僕に好意を抱いているクラスメイトだ。
「なになに? 卒業式終わったら何するって?」
このタイミングで亜子が登校してきた。彼女が目を輝かせて聞いてくる。
「陽路と渉がサッカーで勝負して、勝ったら真希に告白できる権利を貰えるんだってさ」
すかさず大夢が答える。大夢はやる気満々の表情で僕に向かって「ね?」と答えを求めた。僕は頷き、それに続いて渉と陽路がそうだよと言う。
「何それ、楽しそう。私も見学していい?」
「もちろんいいぞ」
渉が応える。
「やったー!」
亜子が喜びの舞を披露していると、隣から野太い声が聞こえる。
「その話、聞いたぞ。真希は渡さねぇ……」
そう言って声の主は椅子から立ち上がる。
「俺もその勝負に混ぜさせてもらう!」
熊雄が参加表明した。それに続いて大夢も「俺もー」と叫んだ。
「本当に騒がしいわね。まぁ、いつものことですし、どうしようもないだろうけど」
メガネのブリッジを人差し指で持ち上げたのは智子だ。彼女は机に座って足を組んでおり、存在感を放っているように思えるが、彼女は影が薄く、僕は彼女が喋るまでここにいることに気がつかなかた。
「おまえこそ、いつも通りの秀才ぶって。まぁいつものことですし〜」
渉に茶化された智子は頬を膨らました。そこに真希が現れた。
「朝から楽しそうだね。何話してたの?」
「今日ね、卒業式終わったらサッカーの試合して、勝ったら真希にこ――」
「そうそう! サッカーの試合して遊ぶらしいから真希も来ない? ってね」
亜子が口を滑らせそうになったところを、ギリギリで僕がカバーした。亜子は僕がカバーして、ようやく気づいたようで、「あっ」という声を零して口元を隠す。
僕も、まさか、亜子にフォローが必要だなんて予想しなかったため、言葉は舌に任せたが、サッカーをするとい言ってしまった。そして、真希がその試合を観に来させていいのかと思った。
「そうだな、真希も来たらもっと楽しくなりそうじゃね?」
熊雄がみんなに聞く。すると、全員口を合わせて「楽しくなるな」と言った。そして、試合に参加する大夢を合わせた4人は、瞳の奥に燃える闘志ぶつけ合い、火花を散らす。
***
卒業式も終わり、各自帰宅し、着替えて集合した。雲一つ見えない快晴だが、風が吹けば少し寒い。そんな中で試合は行われようとしていた。
「じゃあ、これより、4人による個人戦を始めます」
なぜか審判に指名された僕は、開始の合図の代わりにボールを宙に蹴り上げた。『集会所』と呼ばれる広めの原っぱを駆ける4人。一斉にボールへ群がり、自分の恋のシュートを試みる。しかし、そう簡単にはいかないもので、敵に邪魔されたり、ボールを奪われたり、誰も譲ろうとはしない。
邪魔仕返したりボールを奪い返して、一命を取り留める。接戦が長期に渡って繰り広げられる。その光景を、僕と亜子と真希は端に座って眺めていた。
「にゃー」
「この子かわいい〜」
亜子はサッカーはそっちのけで陽路の飼い猫であるミースと戯れる。僕はその様子を横目にサッカーの様子を観戦するが、正直、はサッカーのことは頭に入ってこない。
「なんかわかんないけど頑張れ〜」
真希がみんなに笑顔をばらまく。その表情に釘を打たれた笠原と渉がぶつかって転んだ。
「頑張ってるのはいつものことですし」
今の今まで気がつかなかったが、後ろには智子が座っていた。
「智子、居たのか」
存在感の薄さはいつものことですしってか。本当に驚いた。
「あっ、ちょっと!」
亜子が急に大声を出した。ミースが亜子の手元から脱出し、サッカーのゴール前に走り出したのだ。
「いけぇ!」
それとほぼ同時に宗田のロングシュートが放たれる。ただ、距離が遠すぎてゴール前でスピードが緩やかになった。それでも、陽路のシュートを止めるべく、他の3人は全力でボールを取りに向かうが、おそらく間に合わないだろう。
ボールがゴールに入ろうとした時、ミースがボールに触れた。そのままボールとじゃれ合う。そして、ボールはゴールの中まで転がり、ゴールした。
「もしかして……」
息を切らしている陽路は力の抜けた声で呟く。その他の参加者は疲れ切っていたものの、安堵の表情を浮かべる。
「えっと……今のはミースの得点ということで、ミースの勝ち、でいいのかな?」
どう判断していいのか困ったが、ルール上、ミースの勝利だ。
「嘘だろ」
飼い主のことはおかまいなしに、ミースはボールで遊び続ける。
「じゃあ、ミースが告白の権利を貰ったってこと?」
亜子が僕に小さな声で尋ねる。
「そういうことだね」
僕としても、以外な結末で驚いていたが、どうしてもおかしくなって、笑ってしまった。それにつられてみんなに笑いが伝染していく。
「ということで、私に告白できる権利はミースのものだよ〜」
そう言って真希がミースを抱き上げた。
「なんで知ってるんだよ」
熊雄が不思議そうに問う。
「そりゃあ、廊下まで聞こえてたから」
「声が大きいのはいつものことですし」
3人は顔を赤らめて悔しがった。
中学になっても、今と変わらないような学校生活が待っているのだろうか。勉強や部活で忙しくなればこうやって集まって、遊ぶ機会が少なくなるのかと思えば、寂しいような気もする。
終わりの春から始まりの春へ向かって、時間は加速していく。暖かい春はすぐ目の前にある。
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