第3章〜高校生編〜

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第3章〜高校生編〜

 怠いくらいの快晴だ。登る太陽は暖かい日差しで道を照らす。なのに、僕の歩く道は暗くて、仕方がないから闇雲に歩いている。そんな感じだ。  合格した、星樹高校へ行くには避けては通れない潮見坂を登っていた。周囲には僕と同じく真新しい白の制服を着た人たちが歩いている。  星樹高校の校門に到着した時、異常な心拍数に驚いて立ち止まった。たしかに、潮見坂は急で疲れるのはわかるが、まさかここまで酷いとは思わなかった。受験の時はそこまで苦しく感じなかったのに、どうしたのだろうか。春休みの運動不足のせいだろうか。  こんなところで止まっていては不自然なので、また歩き始め、門をくぐった。 「啓太! おはよう」  向こうから練二がこちらに寄って来た。 「おはよう」  僕は彼に近づいていいのだろうか。彼ならば、年上が入り混じる場所にいたとしても、友達の1人や2人くらいなら簡単に作ることができるだろう。だから、僕は下手に彼に関わらない方がいいのではないかと思った。  彼は僕と共に行動し、楽しい話をする。思わず笑ったり、ツッコミを入れたりと、僕の気持ちを明るくする。これだから、彼は人間として人気があるのだ。さぞ、女子からもモテモテだろう。  ここで感謝の気持ちでなく、羨望を抱くなんて、どんだけ僕はクズなんだよ。仮にも命を救ってもらった恩人なのに、今では感謝の気持ちも申し訳ないという気持ちもあるわけではない。救いようがないな。  入学式が終わり、クラスを確認した。すると、僕と練二は同じクラスであった。彼は嬉しそうに、僕へ輝く目を向けた。ただ、ここにいるはずの亜子は同じクラスには居なかった。それが嬉しくも感じた。その理由はぼんやりと霞んでいて、よくわからない。 「あっ」  オリエンテーションのため、教室に入った瞬間、そこに咲く一輪の花に目を奪われた。忘れるつもりだった。どうせ、次会う機会があるわけでもないし、僕は誰にも近づいてはいけない存在なのだから。なのに……。  あの日、一目惚れしたあの女子生徒が目の前にいた。  制服こそ違うものの、容姿や細かい顔のパーツが一致していた。つい守ってやりたいと思わせる可愛らしい顔に、そっと触れてみたくなる華奢な指先。全てが卑怯だと思える天からの恵みものであった。 「啓太? あ、もしかして」 「ん? あっ、ち、違う!」  彼女の美しさに魅了されていた僕は、数秒立ち止まって固まってしまった。そのせいで、練二に恋心がバレてしまう。  練二はニヤつきながら耳元で「どの子?」と訊ねる。慌てて否定したのも焼け石に水であった。 「あ、あの子でしょ。あの赤いゴムでポニーテール作ってる子」  図星だ。反論の余地も与えない迅速かつ的確な回答だ。さすが秀才ってところか。 「うん。そう」  もう、開き直って頷いた。でも、なんだか照れ臭い。好きな人を知られることがこんなにも恥ずかしいなんて。  こうして、僕の高校生活が始まった。 「そういや、佐々木さんに話しかけたりしたか?」  定期試験が終わり、一安心したと思えばこれだ。約1ヶ月、できる限り他人と距離を置き、高校生活を送っていた。練二は他の友達と仲良くしつつ、僕のところへ来てくれる。  そして、いろいろな気遣いをしてくれる。ここまで心配されたのは初めてだった。放っておけばいいのにと思う反面、心配されて嬉しくも感じた。今では、彼が唯一の心の支えになっていた。 「そんな。僕とは不釣り合いだよ。近づいていい存在じゃないと思う」 「啓太ってさ、本当に真面目だよな。それに、過去のこと気にしすぎじゃない? もっとさ、欲望のまま生きろよ。佐々木のこと好きなんだろ? 青春したっていいじゃないか」 「そうかな」  少し気持ちが揺らいだ。かといって、話しかける勇気があるわけではない。 「でも、僕には話かける勇気なんてとても……」 「なら、俺が手伝うよ」  自信満々の笑み。練二と話しかけたらむしろ、彼に好意が向けられそうで怖い。 「いや、大丈夫。こんなところで勉強以外のことに熱中しない方がいい気がするから」 「本当にそれでいいのか? 今を逃したら他の人と結婚することになるかもしれないんだぞ?」  強制結婚制度。少子化防止のために作られた制度のことで、未来機関が使っている未来予知の技術で相性の良いパートナーが選ばれる。そして、結婚させられる。ただし、既に結婚相手がいるのであれば、その制度を無視することができる。  今しかできない恋。少しでも遅れれば先着者が現れるに違いない。諦めるのが妥当。忘れることが大事。 「選ばれた人ならきっと、僕と一緒にいても幸せでいられる人なんだよ。だから、僕は出来る限りの不幸を生まないために、その制度に従おうと思うんだ」 「そんなことしたら後悔するだろ。たしかに、幸せになれるんだろうけど、今しかできないことだってある」 「たしかにそうだ。けど、彼女だって今しかできないことがある。それを邪魔するのはよくない」 「屁理屈言うなよ。まぁ、無理に話しかけさせるわけにもいかないし。気が変わったら言ってくれ。手伝うからさ」 「そうだね。その時はよろしく」  素直になれない。心では佐々木さんと話したいと思っている。でも、頭では僕が不幸を運ぶことを恐れて近づきたくないと思っている。僕のくだらない欲望のせいで彼女を不幸にさせたくない。  こんな気持ち、邪魔でしかない。純粋であれば、まだ可愛がることのできる気持ちかもしれないが、僕のそれは明らかに下心も含まれていて、汚れている。  こんな僕を誰が許すだろうか。 「そうだ。最後に一つだけ忠告」  練二は急に険しい表情になった。 「佐々木さんはどうか分からないけど、佐々木さんの友達は性悪で有名だ。だから気をつけろよ」 「わかった。気をつける」  僕はその言葉をあまり気にせず右から左へと流した。だって、佐々木さんが性悪なわけがない。普段ばら撒く笑顔に裏なんてないし、そもそも友達と本人の性格に関係はないからだ。  今日はバイトの日であるが、最近は脳裏に佐々木さんがこびりついているせいでボーっとすることが多くなった。まさか、無心になれるはずのバイト中でも忘れることができないとは。恋は人を狂わせるというのは本当なんだなと実感した。  梅雨入り前だからだろうか。一切翳ることのない太陽が容赦なく全身を焦がす。気怠いせいで、気分は最悪だ。これからバイトというのも、なかなかしんどい。  帰りだから下り坂とはいえ、転がらないようにバランスを取るのは本当に疲れる。 「はぁ、はぁ……」  いつものことながら、体は疲労感を訴える。どうしてだろう。そこまで年を取った覚えはないし、中学まではこんなことなかったのに。  そんなことを考えていると、坂のふもとに佐々木さんがいることに気づく。友達も3人いる。  好きな人が視界にいるだけなのに、とても緊張してしまい、本格的に体温が上昇し始めた気がした。自然に。自然な形で駅まで歩く。そう暗示をかけても、僕の目は彼女を向いている。  すると、僕の目線に気づいたのか、彼女はこちらを一瞥して僕に近づいてきた。  汗が吹き出し、冷静ではいられなくなった。もしかしたら、見ていたのがバレたのかもしれない。それが気持ち悪くて文句を言いに近づいてるのか? 「あ、あの……和田さん」  控えめで柔らかな声。その声が僕の名前を呼んだ。 「な、何ですか?」  彼女は顔を真っ赤にさせて、もじもじしている。何かを躊躇うように。  近くで見れば見るほど美しく整った美形。直視することが禁じられていてもおかしくない。そんな世界遺産といっても過言ではない彼女が目の前にいる。緊張で胸が張り裂けそうだ。 「その……」  彼女はきっぱりと物を言わず、緊張している様子だった。ということは、僕を罵倒しようとしているのではないのだろうか。  しばらく彼女が緊張と対峙しているのを眺める。 「私、和田さんのことがす、好きなんです」  やっと彼女が口を開いたと思えば、思わず耳を疑うような言葉が出てきた。本当に聞き間違い? でも、今、しっかりと「好き」と言った。彼女が振り絞った勇気を無駄にするわけにはいかない。 「ぼ、僕も、佐々木さんのことが好きです。だから、付き合いませんか?」  彼女の純粋な気持ちを悪い方向のものと勘違いするなんて、僕はどれだけ最低なんだろう。そう思ったのは一瞬だけ。次第に嬉しさが増し、自己嫌悪は消え去った。  今までの人生で一番幸せを感じた瞬間だった。そして、僕が突き出した、震える右手が握られるはずだった。 「あはははっ!」 「ウケるんですけど!」 「やっぱり、不幸を運ぶっていう噂は本当だったみたいだね」  佐々木さんの友達が爆笑しながらこちらへ近づく。 「まぁ、あれだね。最高に気味が悪い好意を向けられてるってことを知った分、フラれた方がマシだったかもね」 「あーあー。泣かないで。まさか、こいつがここまで空気の読めないバカ真面目だとは思わなかったんだよ」 「もしかして、自分がモテるほどのイケメンとでも思ってるのかな⁉︎ もしそうだとしたら大間違い。あんたに惚れるやつなんて到底いないよ」  佐々木さんは目を赤くして涙を溜めていた。彼女を慰めるように、3人が囲って背中をさすったり、ハンカチを渡したりしている。  何が起こっているのか理解できなかった。いや、理解したくなかった。 「もういいよ。行こ行こ」  そう言い残し、3人は佐々木を連れてどこかへ行ってしまった。  僕は1人取り残され、ただ呆然としていた。事実を受け入れたくなかった。現実から逃げたかった。自分の記憶を抹消してやりたかった。  ただ、時間が過ぎ、絶望がゆっくりと僕を飲み込んでゆく。行き場を失った刃は僕の胸に刺さったまま。  存在が押し潰されて消失してしまいそうだ。視界はぼやけて輪郭が揺らぎ、目からの情報を遮断したくなる。なのに、瞼も手も足も、心臓すらも動かせる気がしない。  脱力感とは全くの別物。痛いを通り越して何も感じない。月が雲で隠れたなんてレベルじゃない。月が大爆発を起こした後の夜の地球。木っ端微塵に砕かれた幻想。  自嘲なんて以ての外。ただでさえでも消えそうな存在価値を道端に落としてしまう。乾き切って皹の入った心。もう、当分立ち直れないだろう。 「ゴホッゴホッ!」  息をすることも忘れていたらしい。苦しさに耐えれず咳き込んで、荒く息をした。もう、帰ろう。これからバイトもあるから。  俯いて駅までのおよそ200メートルを進む。電車に乗り、揺られること15分。クーラーの効いた車内から出れば初夏の暑さがお出迎え。バイト先まではほとんど距離はないのに、怠くて仕方ない。  あー。僕って何で生きているんだろう。  そんなことを聞いても大空は頭上に広がるだけで、何も答えてくれない。  痛くない。暑くない。歩いてない。動いてない。何も感じない。苦しい。息苦しい。もう死ぬの? まだ死なないの? 生きてる。起きてる。眠い。  目の前に地面があり、自身が倒れたことに気づいた。それを最後に記憶は途絶えた。  小学校の頃、私はいじめられていた。友達がいじめられているのを止めようとしたところ、矛先が変わってしまい、私がいじめられる羽目になった。  でも、友達のことを考えれば、耐えられた。たしかに理不尽ではあるが、私が代わりにいじめられるのならよかった。  日に日にエスカレートするいじめ。辛くて仕方ない毎日。愛想笑いで自分を噛み殺し、自分が自分でなくなっていく気がした。  そんな時、いじめから私を救ってくれた人がいた。それが啓太だった。彼と支え合いながらいじめを乗り越えた。好きにならないはずがなかった。真面目で正義感が強く、頭がいい。ちょっと精神的な面が弱いが、どこか助けたくなるような弱さだ。  この気持ちが本物なのか疑うような出来事もあった。しかし、彼と距離を置いて自分の気持ちに嘘偽りがないと証明した。そして――  啓太のクラスを覗き、彼がいないか確認する……が、やはりいない。  最近避けられているような気がするので、嫌われているかもしれないのにこんなストーカーじみたことをするなんて、本当に最低だなと思う。でも、好きだから仕方ないと開き直っている。  それにしてもどうしたのだろう。彼が風邪になることなんて一回もなかった。サボりとも考えづらい。しかも、数日ならまだしも、2週間も休んでいる。  何かあったのだろうか。 「あ、南原さん。どうしたの?」  岩井さんが教室から出てきて私の名前を呼ぶ。岩井さんは啓太と友達だから何か知っているかもしれない。 「啓太って学校来てますか?」 「それがね、今入院してるみたいで」 「入院⁉︎」  思わず大声を出してしまった。 「な、何かあったの?」  急に心配になった。風邪くらいならそっとしておこうと思ったものの、入院となれば話は別。 「うーん、俺は熱中症って聞いてるよ」  そこまで言って、彼は口を噤んだ。 「ごめん。ここでは言えない。ちょっと来てくれ」  岩井さんは私を人気のない廊下へ案内した。 「啓太には好きな人がいたんだ」  急に飛んできた言葉は私の精神に穴を開ける。力が抜ける。 「あ、そ、そうなんだ……」  失恋。こんな形で失恋するなんて……。たしかに、私は最近避けられていたような気がするけども。それでも、納得がいかない。違う。受け入れたくないだけ。 「うん。それでさ。その好きな人から嘘の告白をされたかもしれないんだ」  啓太が学校を休み始めた頃、啓太の好きな人である佐々木さんとその友達が「あの告白やり過ぎたんじゃないか」という話をしていたらしい。だから、確信はないが、嘘告白のネタばらしの際に相当酷いことを言われ、体調を崩したのだろう。というのが岩井さんの話であった。 「そうなんだ。ありがとうね」 「もしできるなら、啓太に電話してやってくれ。俺が電話しても大した反応はもらえなかった。自暴自棄になってると思うから多少覚悟がいると思うけど、お願いしたい」 「わかった。今日の放課後にでも電話してみる」 「あ、なんかあったら連絡できるようにしない?」 「そうだね」  そう言って私たちは連絡先を交換した。 ***  ベッドに座り、啓太の連絡先を開く。そういえば、電話をかけるのは初めてだ。そのせいか、少し緊張している。  通話ボタンを押すと呼び出し音が鳴る。2回も鳴らないうちに啓太の声が聞こえた。 「どうした」 「あ、その、最近学校来てないから、どうしたのかなーって思って」  言葉は投げやりなものだった。たった一言だけで、彼が私の想像以上に傷ついているとわかった。 「熱中症になって入院してるだけ」 「熱中症で2週間も入院することなんてないよ。ねぇ、本当にどうしたの?」 「……とにかく、心配なんていらない」 「入院してる場所は?」 「ほっといてくれ。友達にそんな心配される筋合いなんてない」 「友達だからとか、そういうのは関係ない! 私は啓太のことがすごく心配なんだよ?」 「嘘だ」 「えっ?」  私、疑われてる? どうして……。たしかに、彼が好きな人だからこそ心配なのである。でも、心配である気持ちに嘘偽りはない。 「そんなわけないじゃん! 心配に決まって――」 「練二に言われたんでしょ。だから心配してるふりしてるだけ。正直、僕のこと、もう友達と思ってない。そうだろ?」  私は言葉を失った。ここまで言われれば絶望する。今まで積み上げてきたものは何だったのだろう。まだ、あの時の事件を気にしているのだろうか。  このままいけば、啓太との関係が本当に崩れてしまう。それだけは避けたい。でも、どうすれば……。 「……私ね、啓太のことずっと見てたの。気持ち悪いかもしれないけど、毎日のように見てた。だから、啓太が2週間くらい学校に来てないのはわかった」  恥ずかしかった。嫌われないか心配だった。でも、このくらい言わないといけない気がした。 「何? もしかして、亜子もそんな嘘つくの?」  意識が吹っ飛ぶかと思った。嘘告白を思い出させてしまったかもしれない。 「違う! 嘘の告白なんかじゃない!」 「なんで僕が嘘告白されたの知ってるの?」 「練二から聞いて…… 」 「そうか。僕は練二にこの話はしていない。ということは、亜子は嘘をついている。佐々木さんたちと仲良くなったんだね」 「――っ違う!」 「もう、僕に関わらないでくれ。じゃあ」 「だからそれは勘違いなんだって――」  電話が切れる音が鳴る。  最悪だ。まさか勘違いされるなんて……。まずい。かといって、私にできることなんてない。  途方に暮れ、ベッドに倒れ込む。泣きそうだ。こんな時くらい泣いてもいいかな。あんなに信用されてないってことは、完全に脈なしであることは明白。失恋したのかな、私。  助けたいのに。涙がこめかみ辺りを通る感覚がした。自分の無力さを痛感し、失恋の痛みを覚え、苦しくて溢れてしまった。 「どうしよう……」  コンコンコン  部屋のドアをノックする音が聞こえ、すぐに涙を拭って上半身を起こした。 「はーい」  私が答えるとドアが開き、お母さんが部屋に入ってきた。 「いきなりで悪いけど、亜子は啓太くんのこと好きなんだよね?」 「ん⁉︎ あ、えっと、好き…… だよ」 「じゃあ、いいこと教えてあげる。啓太は坂上病院のA0ーIに入院してるよ」 「へ?」 「早く行ってあげな。もう時間ないよ」  私は戸惑った。どうして私にそんなことを教えるのか。 「早く! 門限はいいから、今すぐ行きなさい!」 「え、あ、わかった」  お母さんに追い出されるように家を出て、坂上病院へ向かう。急かされたから、なぜか走っていた。数十メートルも走らないうちに、岩井さんから電話がかかってきた。  電話を終えた瞬間、私は無我夢中になって走った。手は震え、青ざめた表情で、ひたすら走った。夕日は落ちる。ふと、あの夕日が落ちると同時に、私はかけがえのない大切なものを落としてしまうのではないかと思った。  だから、一刻も早く病院へ。  電話番号を交換した。でも、喜んではいけない。そう自分に言い聞かせる。俺にとっての幸せとはなんなのか自問自答する。やはり、答えはその一つしか出ない。  電話がかかってきた。啓太からだ。 「練二、今までありがとうね」  第一声がそれだった。疲れきった声は、あたかも永遠の別れを彷彿させるような一言。その声の後ろには謎のざわめきが聞こえる。 「何言ってんだよ。感謝するにはまだ早いと思うけど?」  慎重に言葉を選び、啓太の本心を探ろうとした。下手に刺激するのはよくないだろうから。 「練二にとってはそうかもな。でも、僕は誰からも必要とされていなかった。だから。じゃあね」 「あっ! おい! 待て!」  以降、啓太の声は聞こえなくなった。  まずい……。とりあえず南原さんに電話を。  思うよりも先に指は連絡先から彼女の名前を探していた。 「はーい」  彼女はすぐ電話に出てきてくれた。 「――啓太が! 啓太が自殺するみたいなんだ! 何か……」  混乱しすぎて何を話せばいいかわからなくなった。それに、彼女に電話したところで何が変わるだろう。せめて、啓太の居場所がわからないと何も……。 「嘘っ……。あ、啓太ね、坂上病院のA0ーI室に入院してるらしいの。だから、そこにいるかも! 私、今そこに向かってるから」 「本当か! 俺もすぐ向かう。じゃあ、後で」  何故彼女が啓太の居場所を知っているかなんて気にならなかった。一刻も早く坂上病院へ行かなければ。幸いなことに、坂上病院は近い。走って5分というところか。  俺は電話を切ると同時に病院へ向かった。  アスファルトを蹴り、歩行者を追い越し、風を切る。病院に着く頃には息が苦しくて仕方がなかった。それでも、もう一踏ん張り。真っ赤に染まった病院が心配を煽る。  自殺するとしたら、おそらく屋上からの飛び降り。もしくは、部屋で何かしらするか。もしかして……。  啓太と電話している時のことを思い出した。後ろで聞こえたガサガサ音は風の音ではないのかと思い始めた。  ということは屋上? だとしたらもう落ちている可能性が。いや、まだ諦めるわけにはいかない。  残った気力を振り絞って屋上である5階へ。エレベーターよりも階段が早いため、1段飛ばしで段差を駆け上がる。体中熱い。息が詰まる。汗が雨のように滴り落ちる。足が脱力気味。目は道を認識せることで精一杯。踊り場でのターンでは手汗で滑らないか気にする余裕もない。ただ、1秒でも早く行かなければ、間に合わないような気がした。  間に合ってくれ!  何度その言葉を心中で叫んだことか。啓太は大事な友達だ。それだけではない。俺の野望を果たすことのできる唯一の人物なのだ。死んでもらうわけにはいかない。絶対に引き止める。  5階へ到着し、屋上へ出るための扉が見えた。走っている勢いで扉を開く。すると、フェンスの向こう側に誰かが立っている。彼は地上を見つめ、いつ飛び立ってもおかしくない様子だ。 「啓太!」  彼は少しビクッとし、ゆっくりと振り返った。その目に色は無かった。この世の全てに絶望し、疲れ果てたような目をしている。顔は一目で病人だとわかるほどに青白い上に、体も細くなっている。数週間前の啓太とは思えないほど激変していた。  気がつけば病院にいた。頭痛。嫌な記憶。絶望。吐き気。  上半身を起こして口を押さえた。芋づる式に溢れる白昼夢のような曖昧な記憶が胸を弄ぶから嘔吐感に見舞われたのだ。 『*細胞の抵抗がないなんてな。しかも、それをばら撒いたのがご両親なんてね。この子も可愛そうなもんだ。それよりも、君かね。あれを飲ませたのは』 『そうです』 『また余計なことを。まぁいいさ。君のおかげでこの子も助かる可能性が出てきたんだから。とは言ってもね、助かるかは時間の問題だよ』 『2週間、というところでしょうか?』 『よくわかってるじゃないか。2週間後には呼吸困難に陥って、相当苦しんで死ぬだろうな。それに、この2週間の間で機能を放棄する器官が出てきたら終わりだよ』  寝ている僕の隣でこんな会話があったことを思い出した。周囲を見渡してみても、他の患者はいない。じわじわと精神を蝕む何かを黙って見つめることしかできない。  およそ3年前に騒がれていた中学生の不可解な死。それから並以上の記憶力と思春期のような情緒不安定な精神状態。これらは*細胞が原因で起きる症状だ。僕の体はこの細胞に依存してるせいで、この細胞が死んでしまえば僕も死んでしまう。  細胞が老化しているせいで、僕の体にも影響が出てきている。そして、細胞が死ぬのも時間の問題。そういう説明を医者から受けた。  なんかもう、どうでもいい気がしてきた。どうせ、僕は生きていても邪魔になるだけ。死体が歩くのとなんら変わりない。ゾンビなのだ。おそらく、今の僕は何にも感じないだろう。  これから出されるであろう昼食の味も、胸に詰まる想いも、未来への期待も、生きる希望も、愛さえも、今の僕には必要なければ豚に真珠だ。  僕は心身ともに腐ってしまい、生きている実感も存在の意義も失った。そして、どうしてここにいるのかさえも分からなくなった。生きるってなんだろう。死ぬってなんだろう。いくら自分に問いかけても答えは見つからない。  どうして僕は産まれたのか。何のために僕は産まれたのか。何をすれば良いのか。汚れた僕はいつ焼却されるのか。どれもこれもまともな返事は返ってこない。  学校はなんだったのか。いじめは、友達は。好きとは。嫌いとは。  広大な思考の中に迷い込み、行き場を失った。辿り着く先は天国か地獄か。はたまた第3の世界か。  どうして生に執着するのか。人間は死へ向かって歩いているというのに、いちいち遠回りを望むのか。  どうして上に立ちたいと思うのか。人間はどうでもいいことで争い、下と上を決める。勉強でも同じ話だし、戦争や政治だってそうだ。  あぁ……。そんなのどうだっていいんだ。どうせ死ねば何もなくなる。考えたって無駄。追求する理由なんてどこにもない。ならば、僕は何をしたらいい。することなんて何一つない。ベッドで時間を浪費しればいいのだろうか。  日に日に体が衰弱していくのがわかる。最近では常に息苦しい。投与される薬の量も増えた。その副作用が体に現れると、もうやるせない。顔色はみるみるうちに悪くなり、髪の毛もどんどん無くなり、体重も過激なダイエット以上に減る。動くどころか、命令することすらも拒む脳。そろそろ末期だと思った。  嫌だった。全てが嫌だった。この世界は何一つ信用できるものなんてない。時々、練二から電話がかかってくるが、おそらく偽善。まともな反応したら負けだ。  死は大夢を思い出させる。僕だって見殺しにしたことを仕方ないと自分を肯定しようとしている。彼は僕が死んだら一生消えない傷を負っていただろう。  何だかんだで僕だって偽善者だ。完璧な練二が偽善者でないわけがない。偽っているに決まっている。人間的に全てが備わっている人なんているはずない。そんな人いるはずない。いていいはずがない。いるのなら、僕は、僕はどうなる?  無意味。認めたくない。嫌だ、僕は無意味なんかじゃ……。  ――いじめ  あぁ。そうだった。僕は笠原たちのいじめを止めた。でも、いじめが全て消えたわけではない。山ほどあるいじめのたったひとつまみを除外したところで何になる?  結果、僕の存在は無意味なものである。 「どうした」  亜子からの電話だった。 「あ、その、最近学校来てないからどうしたのかなーって思って」  寿命が近いなんて言ってどうする。亜子を困らせるだけだ。だから嘘を。 「熱中症になって入院してるだけ」 「熱中症で2週間も入院することなんてない。ねぇ、本当にどうしたの?」 「……とにかく、心配なんていらない」 「入院してる場所は?」  どうしたのだろうか。ここまでしつこいなんてらしくない。 「ほっといてくれ。友達にそんな心配される筋合いなんてない」 「友達だからとか、そういうのは関係ない! 私は啓太のことがすごく心配なんだよ?」  はぁ。亜子も……。亜子までもこんなことを。 「嘘だ」 「えっ?」  亜子だけは信用していたつもりだった。亜子だけは嘘をつかないなんて思っていた。でも、それは間違いのようだ。 「そんなわけないじゃん! 心配に決まって――」  僕と距離を置いていたくせに友達だとか心配だとか。酷い嘘だ。 「練二に言われたんでしょ。だから心配してるふりしてるだけ。正直、僕のこと、もう友達と思ってない。そうだろ?」 「……私ね、啓太のことずっと見てたの。気持ち悪いかもしれないけど、毎日のように見てた。だから、啓太が2週間くらい学校に来てないのはわかった」  あぁ、もう騙されない。 「何? もしかして、亜子もそんな《・・・》嘘つくの?」  嘘の告白。今のはきっとそうだ。勝手に勘違いさせ、笑い者にする気なのだ。絶対に。 「違う! 嘘の告白なんかじゃない!」 「なんで僕が嘘告白されたの知ってるの?」 「練二から聞いて……」  確信した。僕は人から必要とされていない。ただ、おもちゃとしては使えるからこんなことしてるのだ。 「そうか。僕は練二にこの話はしていない。ということは、亜子は嘘をついている。佐々木さんたちと仲良くなったんだね」 「――違う!」 「もう、僕に関わらないでくれ。じゃあ」  プチッ――  決めた。もう生きている苦しみ耐えきれない。自殺しよう。  練二にはお礼を言わなきゃ。一応、仲良くしてたから電話をかけてお別れの言葉を告げようと思った。 「練二、今までありがとうね」 「何言ってんだよ。感謝するにはまだ早いと思うけど?」 「練二にとってはそうかもな。でも、僕は誰からも必要とされていなかった。だから。じゃあね」  言いたいことを伝えて容赦なく電話を切った。  感度の悪い体を動かし、部屋から出て、ゆっくりと通路を進む。歩くだけで辛い。心臓が握られ、今にも潰されそうな感覚。  階段を一段ずつ上がる。軽くなったはずの体は何故か重く感じる。  屋上からの眺めは良いだろうなぁ。地面に叩きつけられた時、痛いかな。  変な心配ばっかり。命の価値なんて一切考えていない。屋上に出ると、風の強さに思わず目を瞑った。今となっては心地良いなんて思わない。  フェンスを越えて地獄の目の前まで来た。震えなんてなかった。もう、諦めているのだろうか。この世に後悔なんてないし、生きていても苦しいだけと気づいたからだろうか。あと一歩踏み出せば―― 「啓太!」  ここにいるはずがない。わかるはずがない。なのに、どうして練二の声が?  僕は振り返っていた。そこには疲れ果てた様子の練二がいる。  僕は理解に苦しんだ。嗚咽が漏れそうになった。堰が切れそうになった。希望を――ダメだ! ダメだダメだダメだ‼︎  ここまで来て、後に退くわけにはいかない。だから。 「話を、させてくれ」  息切れしてるというのに、優しい一言だった。心が揺らぐ。少しだけ。少しだけ会話しよう。どうして僕の居場所がわかったのか気になったから、なんて自分の中で理由をつけた。心残りを消すためだ。  僕は。僕は。結局弱いだけなのだ。何かに縋っていたいのだろう。僕は渋々体を練二の方へ体を向けた。  どこまで行っても変われない。アンビバレント。僕は練二に対して2つの相反する感情を抱いている。一つは自殺を止めてくれてありがとうという気持ちと、もう一つはどうして自殺を止めたのかという怒りにも近い感情。 「僕さ。もう死ぬんだって。見ればわかると思うけど」  自分で酷い姿になっと思うほどだ。他人が見れば、すぐにその変貌ぶりに違和感を持つだろう。 「苦しいんだよ。苦しくて、苦しくて……。だから、早く楽になりたいんだよ」  苦しい。苦しくて苦しくて、どうにかなりそうだ。心臓に手を添えられ、いつでも握り潰せるよと言われているような感覚。  心はぽっかり穴が空いていて、その穴に吸い込まれそうなほど僕は矮小な存在になっている。 「おまえ、大夢の命を無駄にするつもりか!」  あの穏やかな練二も怒るのか。いや、あの練二すらも怒らせてしまうくらい酷いことを、僕はしようとしているのだ。 「大夢は……」  大夢は僕が死んだら辛い思いをする。だから仕方ないわけで、僕だってこんなことになるなんてわからなかったから。そんな言い訳を言う勇気は無かった。 「大夢は、おまえに生きて欲しいから自分から死んだ。話を聞いての俺の解釈はそうだ。おまえはそれでも自殺を望むのか? 最後の最後まで足掻いてみようとは思わないのか?」  痛い。 「足掻くって、何をだよ。僕に残されたのは時間と苦痛だけ……。だから楽になる方を望んだっていいじゃないか!」 「もしも、大夢が許したとしても、俺は許さない」 「え?」 「おまえは明らかに忘れているものがあるだろ。おまえが辛い時、ずっと見守っていたんだぞ!」 「……亜子のこと?」 「それ以外に誰がいる」 「何? 練二も亜子と同様、佐々木たちとグルなの?」  安易に信じられなかった。信じて裏切られた時の痛みをしっているから。もっと早くに気づけばよかったと酷く後悔したから。  練二はしばらく黙った。 「……啓太、ちょっとこっちに来てみろ」 「どうして」 「――いいから早く!」  どうしてここまで怒っているのか理解できなかった。言われるがまま、フェンスを越えて練二の前まで来た――その刹那、頬に強い衝撃が走った。 「俺も亜子もおまえを騙すわけねぇだろ! 私利私欲で悪いけど、俺の好きな人を傷つけるようなことするなら、絶対に許さないからな!」  真っ直ぐな瞳がこちらに向いている。もしかしてと思ったが、確信はなかった。結局、その言葉の意味もわからず、ゆっくりと頬の痛みを噛み締めた。 「もうすぐ来るはずだから、それまでは絶対に自殺するなよ」  そう言って彼は屋上から出ようとドアノブに手を置く。 「俺だってさ、寂しくなることもあるし、辛い時だってある。そんな時はさ、友達に頼ってもいいんだよ」  そう言って彼は笑顔で振り返る。 「だからさ、()何かあれば俺を頼ってもいいからな。じゃあ……また」  背中はドアの向こう側に消えていった。  さっき叩かれた頬よりも、胸の締め付けの方が痛い。熱くなっていくような、何かが満たされていくような。  灰色すらも存在しない、無味無臭で、白と黒だけで構築されている世界。生きる価値も存在意義もない、ただただ、歩いてきた道のりを眺めているだけの人生。カーテンコールも虚しくなるほどつまらない物語。  ――そんな物語も終わり。すなわち、ここからが本当の物語。今までのものは序章に過ぎない――  一つの希望と想いが胸の中を駆け巡る。熱くて苦しくもあった。  誰かが来る。階段を急いで駆け上がる音、苦しそうな呼吸、地面を蹴る音――ドアが開いた。  息を切らせ、苦しそうな表情を浮かべる亜子と目が合った。亜子は僕を見て動揺した。そりゃあ無理もない。自分でさえも驚いたのだから。 「醜いでしょ。こんな姿を見ても、好きって言える?」  声を失ったはずの彼女は間髪を入れずに答える。 「言えるに決まってるでしょ!」  膝に手をつき、彼女は息を整えた。  僕はその様子を黙って見ていた。でもすぐに、恥ずかしくなって目を逸らしてしまった。その理由は分からず、黒と白の空を横目に見て誤魔化す。 「啓太――」  彼女は呼吸を整えようとしない。その真剣さに引き寄せられて僕は彼女の瞳を見つめた。動悸が激しい。何も考えられない。 「私、啓太のことが好きです」  世界が鮮やかに彩られていく。夕日のオレンジが亜子を染めていき、奥に見える空は少々青さを残している。艶のある黒い瞳がこちらを真摯に見つめ、溜まっている涙が光る。真っ赤な唇は優しく微笑み、白と黒が調和した音色が辺りを包む。虹色の風が吹ちて花壇の緑が舞い上がり、それに続いて黄色、水色、紫がどこからともなく現れては欠けていたピースを埋めるように世界へ溶け込んでいく。  既視感がある。しかし、前のものとは比べものにならないほど革命的かつ衝撃的だ。 「あ、あぁ……」  世界の真の姿を目の当たりにして僕は声を失った。そして、その場にしゃがみ込んでしまう。 「け、啓太? 大丈夫?」 「うん……大丈夫。それより、ありがとう。2回も気持ちを伝えてくれて。それと、ごめんなさい」 「2回も告白したつもりないんだけどね」  亜子が苦笑いして言う。たしかにそうだ。あれは僕の勝手な早とちりであったなと通話でのやり取りを思い出す。 「なんにせよ、啓太が謝ることない。だからさ、例え私のことが嫌いでも、自分自身のことは嫌いにならないで」 「わかった。自殺はやめる。でも、僕はもう、死ぬんだ。見ての通り、体が衰弱してるんだよ。これから先、一緒に居られる保証もない。おそらく、明日、明後日にはもう……」  完全に動けなくなる。そして、じわじわと体が腐って死ぬ。明日があること=未来があるではないのだ。彼女にこの姿を見られているだけでも耐え難いのに、これ以上哀れな姿を見せるなんてできない。それに、僕が死んだ後、彼女はどうなる? 「僕は亜子のこと、好きだ。中1の時、それを自覚した。一緒にいて楽しかったし、お互いに支え合える良い関係だった。亜子の純粋なところに癒されて、たくさん救われた。だから、亜子に、僕を失って悲しい思いをさせたくない」  言い終えた次の瞬間、亜子は僕に抱きついた。 「啓太が明日死ぬなんて誰が決めた? 後悔よりも悲哀が怖いって誰の価値観? 私だって啓太にたくさん助けられた。私のこと好きって言ったんだから、最後まで一緒にいさせて。もう、遠くから眺めてるなんてもどかしいこと、私にはできない」  僕は彼女を抱き返した  そうだ、僕が今生きている理由は亜子と一緒にいるため。彼女と幸せを感じるためなのだ。  まだ希望はある。何かの拍子に体が正常に向かうかもしれない。明日、特効薬が完成するかもしれない。0と小数点の後に無数の0が続き、最後に1が付くくらいの可能性かもしれない。でもそれは、完全な0ではない。  練二が言っていた言葉の意味が少しわかった気がした。 「誓う。僕は死ぬその時まで亜子の隣にいる。だから、亜子も僕が死ぬまで隣に居てほしい」  鼻をすする音が響き、亜子の腕に力が入った。 「もちろん」  そして、僕たちは恋人になった。  将来のことを考えることすらもままならないくらい幸せで心地良い。ずっとこうしていたい。でも、そうはいかない。僕が動けなくなる前に何かしないと。  デート。  言葉だけ言われても、付き合うということ同様にピンとこないけど、ほんわかしたものはわかる。どこかへ出掛けて、何気ない会話をして、お互いの存在を確認し合い、幸せを噛みしめる。  明日ショッピングモールや遊園地へ行こうと誘うか。果たして僕にそこまでの体力が残っているのだろうか。それに、明日は平日。学校もあるだろうし、放課後に行くとなれば選択肢は絞られ、残るのは映画館や周辺の観光名所を見物するくらいだろう。  亜子の存在を体の感触で感じながらそんなことを考えていると、彼女は言った。 「ねぇ、覚えてる? 小学校6年生の時の学芸会が終わった帰りに約束したこと」 「もちろん覚えているよ。丘ノ第二公園の展望台登った時だよね。次は潮見坂の頂上にある空見展望台に行こうってやつだよね」 「そう。それでね、今からそこへ行かないかなって」  急な話に少し驚きつつも、すぐに納得した。実は、空見展望台から見る景色は圧倒的に夜の方が綺麗だ。具体的には知らないが、そういう風に聞いている。 「思い立ったが吉日ってことか。それじゃあ、早速行こう」  僕たちは担当医に話をして薬を飲み、服を着替えてすぐに病院を後にした。  帰りは帰宅ラッシュに巻き込まれるかもね、私のクラスの友達がね、小学校の時にあんなことがあって、中学校の時はこんなだったなぁ。  電車の中ではそんな話で盛り上がり、降りて潮見坂に差し掛かるとあの事件の話になった。亜子はあの事件の時、関崎に煽られて自分の啓太に対する気持ちを疑い始め、申し訳なくなって距離を置くようになった。でも、離れて自分の気持ちが嘘でないと再確認できた。彼女はそんなことを語った。裏で起きていたことも知らずに、勝手に誤解してしまったことを謝った。  僕はもう、歩きながら話すことはできなくなっていた。言葉が全て闇に吸収されてしまうかのように言葉が出てこない。  向こう側から来る星樹高校の生徒とすれ違いながら僕たちは上を目指した。ほとんどが部活動生のようで、友達とワイワイしながら歩いている。 「着いたね」  息を整えて、展望台の頂上から下を眺める。民家の明かりや街灯がほんのりと海に溢れ、半人工的で半自然的な風景が広がっていた。  すでに落ち切った陽を彷彿させる明るさ。対して明かりを反射して微かに煌めく儚さ。そのグラデーションまでもが昼夜を連想させるもので、言葉で上手く表現できないほど幻想的だ。 「すごい、まさかここまでとは……」  僕はその美しさに意識を半分奪われたということと、これをどう言葉で表現するか思いつかないということで語彙力が無駄に思えた。 「本当に、すごい……」  2人はしばらく黙って景色を堪能した。その途中で、僕は思い切って亜子の手に触れた。彼女は少し驚いた様子だったが、僕の真意に気づき、照れ臭そうに手を繋いでくれた。  長いはずなのに短い時間はあっという間であった。  立っているのが辛くなってきて、近くにあったベンチに2人で座った。僕の場合、どっと疲れが溢れて一息ついた。そして、目を閉じて背もたれに体を預ける。  目をゆっくり開くと、そこには快晴の夜空が広がっていた。さっき見た海と同じように輝く星たちと、それを優しく見守る月が映った。 「あぁ」  絶句した。そんな僕の様子に釣られて亜子も頭上に広がる隔たりのない夜空に吸い込まれた。 「わぁ……」  幾望の月が明日を照らしてくれる希望に見える。あくまでも完全ではない。未完成である。 「今日は、何から何までありがとう。亜子とここに来れて本当に良かった。今度は昼間の風景も見たいね」 「こちらこそありがとう。私だって、啓太とこんな綺麗な夜空を見ることができて、とっても幸せ。だから、絶対に、また来ようね!」 「もちろん! 約束する!」  もうマイナスなことを考えるのはやめた。楽しく生きていなきゃ、生きる理由も霧散してしまうような気がする。前に進むためにも。  足が動かない。次は腕かな。  亜子は立ち上がり、帰ろうとしていた。 「亜子、待って。もうちょっとだけ、ベンチに座り直して」  そこを引き止める。 「そして、目を閉じて。深く息吸って、吐いて。もう一回、吸って、吐いて」  その間に携帯電話を取り出して病院の連絡先を開いた。いつでも電話をかけられるし、電話を耳に当てなくても音声が聞き取れるほどの大きな音が出るように設定した。  準備が完了すると、左腕が死んだように落ちた。 「僕は亜子のことが好きだよ。亜子は?」 「え? 急にどうしたの? す、好きだけど……」  彼女の顔は真っ赤になっている。おそらく僕も。 「もっとちゃんと言って。照れないでさ、全力で」  胸が痛み、声も出ない。 「え、あ、わ、わかった……。啓太のこと、好きだよ」  そう言い終えると、僕は右手で彼女の体を自分の元に寄せてキスをした――  宙に浮く感覚を味わった後、唇を重ねたまま病院へ電話をかけた。それから先のことは一切覚えていない。唯一、キスしていた時の感覚が脳裏に刻まれていた。
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