線の内側

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「そうじゃないんだ。なんていうか、俺達って八十九年生まれだろ。昔ガキの頃から飼ってた犬が死ぬときもこんな気分だったかもしれない。」平塚はやっと振り返って答えた。ずっと下をのぞき込んでいたからか、顔が赤を通り越して紫だ。心なしか目が潤んでいる。 「なんだよそれ。吐き出すならここで全部吐き出して、仕事には持ち込むなよ。」やはり平塚はおかしい。 「ああ、分かってるよ。それとな桜の花言葉の一つは、精神の美だ。」平塚は再び堀の方に戻っていった。しばらく平塚の泣く声が聞こえていたが、それも真っ黒い公用車のざわめきにかき消された。見上げると日が少し傾いている。さすがに社に戻らなければいけない。平塚を呼ぶために振り返る。 「平塚?」 俺の背後に平塚の姿はなかった。マガモがちゃぷり、と音を立てて潜水するのが見えた。  あの日の午後2時新元号が内閣官房長官によって発表された。同じ出版社の中でも編集部は翌日になっても死ぬほど忙しそうだが、俺たち広報部にその波は届いていない。ただ平塚の件で、部内でまともに口を開くものはいない。最後まで平塚の傍にいた自分でさえまるで信じられない。平塚は平成と心中でもしたというのだろうか、それも桜田門で。この事故はまだ公に発表されてはいないようだが、皇居内での自殺だ。そのうちにマスコミが紅白の社内広告を作ることだろう。平塚ならばそんなことは意に介さないだろうが、それよりも平塚はなぜ死んだのか。俺にはまったく分からない。不幸な事故なのか、あるいは無謀な自殺だろうか。平塚がやるはずだった分も合わせて二人分の作業を進めていく。対外用の資料に元号の誤植がないか探すのだ。こうも日がな一日見ていると、平成という時代ははるか彼方のように感じられる。 少し休憩を入れようと、部内のテレビを付けると「平成ロス」のテキストが飛び込んできた。「平成ロス」。我々は元号の変化で何か失ったのだろうか。画面の奥で、主婦が、サラリーマンが、高校生が控えめに喋る。 「あまり実感がないです」
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