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そう、何もかも実感がない。高校で、実体験が最も確かだという思想を習った。ただこの場合は全くの役立たずである。ネクタイを緩めて、缶コーヒーの栓を開けた。胃の中に甘ったるい匂いが流れ込んでくる。新元号についての話題がやっと落ち着いてくる中、無視できない言葉が耳に入った。全国で自殺者が頻出したという。もう訳が分からない。課長に早退を告げて、背中に課長の怒声を感じながらネットカフェへ走る。一刻も早くこの謎を究明しないと気が狂いそうだ。狭苦しいネットカフェの受付で5時間パックを頼んで伝票を受け取る。さあ、5時間なんてあっという間だ。ブースに入り起動したウィンドウズの音がやけに優し気に聞こえた。
「あのお客様、もう延長四回目ですけど」
店員の声が後ろから聞こえた。ドアを開けて、問題ないと答える。結局ここ最近のものだけではなく、戦後以降の自殺について嫌というほど調べた。SNSや難解な掲示板のスレッドも見尽くすほどだし、オープンになっている論文の要旨は浴びるほど読み漁った。それなのに、ない。平塚はなぜ死んだのか、年号が変わり目で自殺者が出るという統計もなく、漱石の『こころ』がしつこく検索エンジンの網に引っかかって目詰まりを起こしたくらいだった。もう体が限界に近い。ろくに水も飲まなかったせいで、足が磁石に引っ張られているように重い。のろのろと立ちあがり、PCの電源を落とす。受付で膨れ上がった料金を払い、店を後にする。外に出ると、顔を赤くして大声で笑うスーツの男たちが濁流のように新橋に流れ込んでいた。その臭気に耐えられず、気づいたら走り出していた。次々襲ってくる吐き気の波をやり過ごしながら走ると、いつの間にか千鳥ヶ淵まで来ていた。視界が滲んで、変に明るかった。地面が白く光りを反射しているのだ。下を向いた拍子に胃から、胃液だけが流れ出した。足に力が入らず地面に倒れこむ。空は満開の桜で溢れていた。小さな花弁の群れは、すべてを受け入れてくれるように見えた。
「お前、死ぬの一週間早いよ」
おかしくなって笑ってしまう。桜田門で死ぬなら桜の下で死ねよ、平塚。桜の花言葉が精神の美だと教えてくれたのは平塚なのに。ゆっくり立ち上がると、桜の間から国会議事堂が見えた。ライトアップされた石造りはジオラマのような色彩だ。またおかしくなって笑ってしまう。もう帰ろう。明日は今日の分を取り戻さなければならない。
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