天を仰ぐひと

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 わたしはSくんの声をちゃんと知らない。授業でなにかを発言するところは聞いたことがあるけれども、部屋の端と端の座標にいたのでは、人間の肉声の微妙な調子までを聞き取ることは難しい。数秒間空気を割いただけのそれは、ただの文字情報に変換されて、意味だけがわたしの頭に流れていく。彼の声はどのような音だったか、思い起こせない。  自分で紡いだ言葉さえ、時々他人事のように、つながりというものをまるで失ってしまう時がある。特に一週間ほど前の発言なんて、断片的な音の情報と、テキストでの記憶が混同して、口に出したのか頭で考えていたことかの判別は、検討がつかない。あるいは、言葉がふと湧き出てくる時がある。例えば、虎の婿入、high blood pressure、時空阿闍梨、猫も杓子も、などなど……特に決まりはないが、その場でふと見聞きしたものの印象が先行して、単なる言葉遊びをしているだけのようにも思える。自分の声でもなく、なんらかの像でもなく、ただの言葉が頭のなかに踊っていく。そしていつのまにか、消えていく。しんと沈むのは雪だけではなく、言葉も同じなのだろうか。しかし沈んだそれはどこへ?  惚けた頭を引き戻したのは、前の席に座る友人が半身をこちらに向けた時だった。手を出されたのでなんのことやらと見守ると、小さめのサイズの紙束をわたしの机の上に押し付けた。惚けているうちにも世界が一時停止をしてくれれば、わたしはもう少し社会性を身につけていたと思う。  慌てて横に座る人数分を数えて、後ろの人へと回す。その様がなんだか爆弾でも回しているみたいじゃないかと不真面目なことを考えていると、まだこちらを向いたままだった友人がずいと上半身を乗り出して顔を寄せた。彼女は水中から顔を出し息継ぎをするみたいに、 「ごめん、早めに出たいから、書き終わったら提出任せてもいい?」 と一気に捲し上げて、再び潜った。先生の注意を引かないうちにと、返事を待たずして前へ向き直ったのだ。
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