第1章 プリンスの憂鬱

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 朝陽が眩しくて、思わず眼をつむった。閉じた瞼まぶたの裏に、淡い黄金色の煌きがうるさくちらついている。  手の甲を眼の上にかざしながら、すがすがしい朝の光には不似合いな気だるさに気づいた。その重さは昨晩の抱擁の艶かしい余韻というよりも、ぬぐい切れない疲労に酷似している。精神が少しずつすり減らされるような、鈍い疲れだ。  伊集院武は眼を開けると、白い天井を見つめた。  昨晩、真夜中過ぎにこのホテルにチェックインしたことをおぼろげに思い出す。音楽雑誌社に勤める知り合いと、六本木にある彼の行きつけのバーでウィスキーのグラスを傾け、酔った勢いで誘われるままに女の子がいる店に移ったはずだ。 「プリンス」という名の店だった。その後どうしたのか思い起こそうとすると、二日酔いのせいか頭がずきりと痛んだ。  ふと首をねじ向け、隣でこちらに顔を向けて眠り続けている女の子を見る。  口紅がはげた唇は可憐な形をしているが、見覚えのない女だ。唯一記憶に残っているのは、本名なのか源氏名なのか定かでないけれど、彼女が、さやか、と呼ばれていたことだ。  さやか。サヤカ、さやか。  樹立ちの間を気ままに縫い、葉を軽やかに揺らしながら吹き抜けるそよ風の囁き。  そんな光景を思い浮かべさせる、優しい名前。  とても久し振りに耳にした懐かしい名に誘われて、その子をどうしても抱きたくなった。顔をまるで憶えていないのに、さやか、という名前の響きだけが耳許に残っている。そして、それで十分だったのだ。  眠っている女の子がだらしなく口を開き、武は寝顔から眼をそむけて再び天井を眺めた。  いつも同じことだ。何人女性を抱いたところで、胸の奥にひそんでいる虚しさは消えてくれない。その正体が何なのかは自分でもよくわからず、今度こそは、と己をけしかけて女性を口説くのだけれど、手に入れたとたんに虚しさに襲われる。いわば排泄的なセックスを繰り返している自分が哀れになる。  そして、そんな苦い想いを忘れ去るために、性懲りもなくまた違う女性を求める。  鈍痛にも似た疲労に襲われ、武は再び眼を閉じた。窓越しの陽射しが瞼に暖かく降り注いでくれた。  さやか。  思わず胸の中で呟いた名前に導かれるようにして、遠い昔、軽井沢で過ごした眩い夏の日々を思い起こしていた。
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