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4話 誘拐
それは、何か、特別なことが起きない限りは……けして見えないことだったのだろう。
『皮』1枚を隔てて行われる、異形の捕食。人知れず誰かに成りすまし、喰らい、殖え、また喰らう……それが繰り返されるはずだったのだろう。
特別、あるいは想定外の事件。偶然が重なり、確率の網の目を潜り抜けて……現実は顕れる。
ありえないはずのイレギュラー。それは、黒川麗が誘拐されるという形で発生した。
彼は街を必死で駆けずり回っていた。
時刻は午後6時。一日中走り回った体はボロボロで、食事もろくにとらず足元はふらついている。
荒れる息を抑えきれず、やがて彼は足を止めた。
「ハァ……ハァ……くそっ」
無力な己を嘆く彼の名前は黒川智仁。黒川麗の2つ下の弟。
彼の姉が誘拐されたのは3日前。自主練習で遅くなることが多い麗は、その日も遅くまで1人残って練習を続け……行方不明になった。
親が警察に届けたが本格的な調査はまだ行われず顔写真の公開と聞き込みのみに留まっている。本人の意思による家出の可能性が否定できず、誘拐の調査がされていないのだ。
だが実の弟である智仁は断言できる、姉は唐突に家出なんてするような人間ではない。自分にも他人にも厳しく、勤勉で文武両道。間違っていると思えば相手が親でも教師でも毅然と反論し、必ずしも品行方正ではなかったが、その分不満をため込むようなタイプではなかった。
「姉さんが……危険な目にあってたら、どうする気だよ……!」
智仁は憎々しくごちた。彼とてわかっている、警察が無能というわけではない、組織が動けないのには理由があると。あと数日待てば本格的な捜査を始めてくれる、弟とはいえただの一般人である智仁が素人判断で探し回ってもなんの意味もない。
だいいち、智仁が危惧している最大の理由は直感だった。ここ数日、姉は様子がおかしかった、言動は普段の姉となんら変わらないはずなのに……長く付き合った者だからわかる微細な違和感を、智仁は感じ取っていたのだ。
それはただの気のせいかもしれない、そもそも智仁と麗はさほど仲のいい兄妹ではなかった。自他に厳しく優秀な姉に反し、智仁は怠慢な劣等生。ことあるごとに麗は弟を叱り、智仁はそんな姉をやかましいと思っていた。
だがそれでも……姉が、もし、と思うと。
姉弟とは、そういうものなのだ。
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