第一章

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 気がつくと握り締めていた携帯はとっくに通話を終えていた。小刻みに震える掌はしっとりと汗ばんでいる。  あの後、何を話したのかはよく憶えていない。だが、とにかく会おうということになって日付と場所を約束したことだけは確かだ。とうとうそんな妄想さえ抱くようになったのでは、と一瞬疑ってみたものの実際に携帯には着信が残っているし、慌てた筆跡で日付と場所を記したメモもあり、これが現実だということを告げていた。  ――伊原に会える。  それだけで、槇は足取りが少し軽くなった気がした。今さら何かを期待するつもりはない。伊原の顔を間近で見られるならそれだけでいい。何事もなかったように。ただ、三年ぶりに会う懐かしい旧友、そういう顔で伊原と会おう。それ位の演技はできるはずだ。  会社の最寄り駅で地下鉄を降りると、ベーカリーショップでサンドイッチとカフェオレを買い、オフィスに向かう。  まだ昼食時なので人影は少なく、節電のために照明も落とされている。  自分のデスクにつくと槇は早速ノートパソコンの電源を入れた。  まずはメールチェック。サンドイッチを齧りながらタイトルと送信者をざっと確認して、急ぎで返事をするものだけを開いていく。  カタカタとキーボードを叩く音が静かなオフィスに響く。槇の所属する情報企画室は「室」と名はついているものの特に部屋を一室宛がわれているわけではない。電波部のいくつもの課の机がずらりと並び、端から端までダッシュするだけで息切れしそうな広大なオフィスの一番隅っこに配置されている。六つ並んだデスクは、今は室長はじめ、主査も課員たち全員が出払っているため槇以外の席は空いている。  むしろ、誰もいないほうが集中することができるので、槇はここぞとばかりに手早くメールを片付けていった。続いて明後日に控える社内プレゼン用の資料を作りながらサンドイッチを食べ終え、先ほどもらったばかりの薬をカフェオレで流し込む。
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