第四章

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 午後七時、金の時計台の下で伊原と落ち合った。軽く酒を飲み食事をしながら、槇は少し仕事の話をした。普段あまり自分の事を語ろうとしない槇の言葉に、伊原はきちんと耳を傾けてくれた。  その後はほろ酔いでいい気分のまま伊原の部屋に行き、そして抱き合った。槇は結局、クリスマスの事を伊原に切り出せなかったが、それでいいと思った。今のままで十分幸せだし、これ以上求めるのは自分には分不相応だ、と。  ところが、槇が事後の気だるい身体を伊原の胸に預けてまどろんでいると 「クリスマスはさ、鍋とカセットコンロ買って、ウチで蟹鍋でもしてみないか?」  と、伊原が唐突に言った。  まるで、もうずっと前からクリスマスは一緒に過ごすことに決まっていたような口ぶり。槇は一瞬、ぽかんとして言葉が浮かんでこなかった。 「ん? マキ、蟹嫌いだったか?」  伊原は怪訝そうに槇の顔を覗き込む。 「ううん、好きだよ」  慌てて首を横に振る。 「伊原が料理する姿が想像できなくて、びっくりしただけ」  軽口を叩いたが、内心はこみ上げてくる感情を抑えるのに必死だった。そんな槇の動揺をよそに伊原はくすくすと笑っている。 「鍋なんて材料切って鍋につっこむだけなんだから、俺にだってできるさ」  普段、伊原は一人の時はコンビニ弁当や近所の定食屋、牛丼チェーン店で夕食を済ませていると聞いていた。冷蔵庫の中はビールや飲み物だけだし、キッチンも使われず綺麗なままだ。  だから、家で鍋をしようなどと伊原が言い出すとは思いもよらなかったし、それより何より、槇は伊原が何を考えているのかわからず困惑した。 「あとは、シャンパンとケーキだな」 「鍋なら日本酒のほうが合うんじゃない?」  傍から見れば実に幸せそうな他愛もない会話。だが、内心、槇は複雑な思いだった。  ベッドの中で交わされる甘い睦言と穏やかな時間。これではまるで恋人同士みたいではないか。  決してそんなものではないのに。  伊原は身体だけの関係を望んでいるはずなのに、なぜ自分に期待を持たせるようなことを言うのだろう。  うっかりするといい気になって図に乗ってしまいそうだ。  ちゃんと自制しなくては、と槇は思う。嬉しいのは嬉しいでいい。だけど、ちゃんと心の中に予防線を張っておかないと、後で現実を思い知らされた時きっと大変なダメージを負うことになってしまう。
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