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部屋に戻ると、伊原は既に帰ってきていた。今しがた戻ってきたらしく着替えを済ませスーツをハンガーにかけているところだった。
「ただいま」
「……おかえり」
いつも優しい笑顔で出迎えてくれる伊原が今日に限ってとても不機嫌な表情を浮かべていることに、槇は戸惑った。
「さっきの男、クリスマスの時に会ったヤツだよな」
「え」
先ほどの光景を見られていたのだ。そう気づいて、血の気が引く。
「あ、あれはたまたま会ったから送ってもらっただけで」
「たまたま会っただけの人間に、マキは手にキスさせるのか?」
「っ……」
伊原はクローゼットの扉を乱暴に閉めると、槇を強引に引き寄せ抱きすくめた。
「マキは俺のものだろ? ふらふらと違う男の車に乗ったりするな。隙を見せるからつけこまれたりするんだ……!」
槇は身体の奥がすぅっと冷えていくのを感じた。
「自分は好き勝手やってるくせに……。それなのに、俺にはそんな事言うんだ」
「マキ?」
怪訝そうに覗き込む伊原をぐいっと押し返し、腕の中から逃れると槇は玄関に向かった。このままこの場に留まり続けたら、喚き散らし泣き叫んでしまいそうだった。伊原とは、ちゃんと冷静に話し合いたいと思っていたのに。
「待てよ! どこ行くんだ、またあの鹿賀って男のところに戻るのか!」
「俺がどこに行こうと勝手だろ! 同情で俺を抱いたり甘やかしたり、束縛するのはもうやめてくれ! 迷惑なんだ!!」
涙を必死に堪えながらそう叫ぶと伊原は、少し傷ついたような驚いた表情を浮かべた。
槇は伊原から視線を逸らし、靴を履くと外に出た。
不本意な形だったとはいえ言いたかったことを吐き出してすっきりしたせいだろうか。不思議と槇の心は凪いでいた。どちらにしろ、伊原とこの関係をずるずると続けるのはもうやめるつもりでいたのだ。静かに綺麗にというわけにはいかなかったけれど、これでよかったのだ。
とぼとぼと歩きながら、今日、これからどうしようと考える。伊原の元にはもう戻れない。寮の管理人さんに「鍵をなくしてしまった」と頼めばマスターキーを貸してくれるかもしれないけれど、こんな遅い時間ではそれも無理だろう。かと言って一人ぼっちでビジネスホテルに泊まるのも寂しすぎる。
槇は携帯の電話帳から一つの番号を選ぶと、目をつむり一つ溜め息をついてからその番号をコールした。
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