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「俺の大学の文化祭。あのひとが来ていた」 いつのことだろう。また、知らない母がいた。 「ぼうっと演劇部の劇を見ていた。その姿は美しくて――ひどく哀しかった」 「かなしい」 「そう、哀しい。明るくて元気な芸者の喜劇だったのに」 「絵になると思った。だからモデルになって欲しいと頼んだ」  母は何がかなしかったのか。 「直ぐに帰らないといけないからって断られたよ。だから、暇なときでいいからと住所と電話番号を渡した」 「来たんですか?」 「一度だけ。雪の夜に」 やはりあの日だ。でもどうして。 「耐えられないとあのひとは言った」 鴇田は息を吐いた。 「鉄格子が見えると」 「……」 「演劇を見ていた時と同じ目だった」 「あのひとにとって、家は檻だったんですね」 普段は忙しさに目を背けていた鉄格子。文化祭で見た劇でほんの少し、目の視界に入ってしまっていた鉄格子が、雪の夜の静けさの中でなぜかはっきりと見てしまった。あの三日は母の逃亡だったのか。この格好は小野呉服に対する反旗だったのか。鴇羽は何も言わなかった。ただ、私の手中にある絵を指でなぞる。指は震えていた。母はどんな気持ちで鴇羽に背を向けて帰ったのだろう。わからない。何もかもあの日の雪の夜に仕舞われた。ここに来れば母の何もかもがわかると思っていた。だが、結局なにもわからなかった。わかったのは雪の夜が母を全てから覆い隠したことだけだった。何もかもが想像でしかない。わかったのは小野の家が檻だということだけだ。 「この絵、差し上げます」 私は鴇羽の返事も聞かず絵を押し付け、アパートを後にした。蝉が鳴いているはずなのに私には何も聞こえず、茹だるような暑さにもかかわらず、肌は粟立っていた。雪の夜のように。
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