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そのアパートは開発に失敗したとある郊外にあった。壊れかけのインターフォンを押すと返事もせずに男が顔を出した。無精ひげのせいで一瞬老けて見えるが、よくよく見ればまだ三〇代前半に見える。
「はい」
「鴇田さんですか」
「そうだけど」
「私、小野夏花です」
「はい」
鴇田は私の言葉を待っている。わからないのだろうか。
「小野君枝の娘です」
「ああ」
ようやくうなずいた。だが、表情は全く変わらなかった。
「だから?」
「絵を見つけました。あなたの絵ですよね」
私は小さな額縁に入った絵を見せた。絵の中で母は蜘蛛の巣柄の着物をすねが見えるほど短く着付けて、ハイヒールを履いていた。帯揚げはリボン状にして長く垂らしてある。こんな着方、邪道どころの話ではない。小野家でそんな着方は許されないどころか考えもされないだろう。小野呉服は着付け用の紐でさえアクリルやましてやゴムさえ使わない。木綿か絹だ。全て公式通り一部の狂いもない着付けを旨としている。それを母は。絵にはサインと日付があった。サインは鴇田千。この男だ。調べた。駆け出しの日本画家。去年ようやく新人賞に引っかかった貧乏画家。
「あのひとは」
母のことだろう。母をあのひとと呼ばれるのがこんなに腹立たしいとは。なんだ。馴れ馴れしい。
「死にました。遺品を整理してたらこれが」
「そう」
鴇田は呟いた。持っていてくれたんだ。
「母とはどんな関係ですか」
「モデルと画家」
あの雪の日だ。誰も知らない雪の日。母はこの男の前でたったひとりこんな格好を。
「母はこんな着付けしません。よほど仲が良かったんですね」
精一杯の皮肉だった。辛抱強くて柔軟。いつだって私たちのよき理解者だった母。コンプレックスの塊で八つ当たりばかりの小心な父にでさえ、優しく接していた母。その母が。
「いつからのお知り合いだったんですか」
「知ってどうする? 君は小野君枝の母親の部分だけ知っていればいい。それ以外の小野君枝なんて知らないほうがいい。君にとっても君枝さんにとっても」
「どうもしない。でも、なかったことにはできません。この絵を知ってしまったから」
この絵を見ても弟があの雪の日を蒸し返さなかったらきっと何かの間違いと捨てただろう。だが、不運なことに二つ揃ってしまった。もう、なかったことにはできない。
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