はじまりのさよなら

3/3
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ
滲んだ涙を乾かしたくて、僕は窓を開けた。 舞い込んできた風は、甘い香りを部屋に運ぶ。 「あら、沈丁花」 妻は目を閉じて香りを楽しむ。 「沈丁花?」 僕はあいにく花の名前には疎い。 「ええ。ほらあそこ、白い花が咲いているでしょう」 指を差すのは向こうに見える教会の庭。 「桜じゃないのかい?」 僕は目を凝らす。 ふふ、と妻は楽しげな声をこぼした。 「この病気が治ったら、一緒に見に行きましょうか」 眩しそうに目を細める。 突然、強い風が吹いた。 よりいっそう濃い香りが、妻の髪をなびかせる。 白い花びらは、妻を連れ去って行ってしまいそうだった。 くしゅんっと小さくなくしゃみをして、娘が目を覚ます。 僕は慌てて窓を閉めた。 妻は、ティッシュで娘の鼻を拭く。 「もう春ね」 窓の外を眺めながら妻は言った。 寝ぼけまなこだった娘はやがて、いつものおしゃべりに戻る。 保育園の友達のこと、おままごと、ブランコ。 娘の話は尽きることはない。 きらきらと屈託のない笑顔を僕と妻に見せる。 可愛いかわいい僕たちの一人娘だ。 愛おしそうに娘を抱きしめる妻。 陽だまりが僕たちを包む。 ああ、この幸せがずっと続けばいいのに。 でも僕は知っている。 幸せは、永遠には続かないことを。 1週間後。 妻は、静かに息を引き取った。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!