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 その綺麗なおうちにだって、ほんの数ヶ月しかいられなかったじゃないか――  蓮は社の入ったビルのゲートに社員証をタッチする。久し振りの出勤だ。他に身寄りはないから、葬儀やもろもろの手続きをひとりでやり、一週間の有給はあっという間に過ぎ去っていった。  とにかく、まずは挨拶回りをしなければ。人ひとりの肉体から命が消えるのは、対峙してみればあっけないほどの出来事だったというのに、あとに残された手続きは多すぎる。しばらくは半休を取ったり、総務の手を煩わすこともあるだろう。根回しは大事だ。  たったひとりの母親がこの世にもういないという実感は薄いくせに、頭は淡々とそんなことを考え、デパ地下の菓子折まで用意させた。脳味噌と体と心、それぞれがてんでばらばらに動いてまだうまくかみ合っていない。  ふわふわした気分のまま一週間ぶりに出社した廊下で、ちょうど尋ねていく予定だった上司に呼び止められた。 「ああ、一ノ瀬。……お疲れさん」 「いいえ。あの、母の希望だったので、お花とか、香典とか、お断りしてしまってすみません」 「あー、いい、いい。そんなの気にすんな。ちょっといいか?」 「はい」  元々こちらから出向く予定だったのだから、否があるはずもない。着いていくと、上司はまっすぐ営業部には向かわず、会議室の空きを確認して中に入った。あとに続いた蓮に「ドア閉めて」と告げる。 「ほんとに、大変だったな。あらためてお悔やみ申し上げます」  こういう話だから、気を遣って場所を変えてくれたのだろう。目下の者に対して戸惑いがちに丁寧な言葉を使う。そんなところひとつとっても、人の死って、ほんとうにいろいろイレギュラーなんだな、などと、人ごとのように考える。 「大丈夫か?」 「はい。もう、すっかり。……あれ? こういう返答でいいんでしたっけ」  よくわからない。上司も苦笑している。その苦笑にも「わかってるよ」という気遣いがにじんでいるような気がした。  春の異動があって、営業から広報に転属になったのは、それから数日後のことだ。
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