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「いやよ。麦に才能がなくたって構わない。小説が売れなかったら、私が働いてお金を稼いでくるわ。それで麦は今まで通り好きな小説を書けば良いじゃない」
「それじゃダメなんだよ」
「何がダメなの? 麦のためなら私はどんなに苦労しても構わない。お願い、麦と一緒にいたいの」
麦の顔からは表情が消えていた。
「それじゃ、ダメなんだ……」
麦の姿が次第に幽霊のようにすぅっと消えていった。
「……さようなら……」
弾けるように目を開いた。目から涙がこぼれていた。夢だと気付いたのはその時だった。
私はすぐに麦の布団を見た。そこには麦の姿はなく、無造作にめくれた掛け布団があった。
確かめるようにゆっくりと階段を下りた。そしてキッチンに立つ麦を見たとき、私はホッとして、また泣きそうになった。
「あ、おはよう」
私に気付いて、麦が声をかけた。電子ケトルに水を入れようとしていたところだった。私は思わず麦に抱きついていた。
麦は少しびっくりした様子で、電子ケトルを持ったまま黙ってその場に立っていた。
「麦、やけに早起きね」
麦の背中に顔を埋めながら言った。
「うん。なんだか眠れなくってね。早起きしちゃった」
いつもの麦だった。
「カフェオレ、淹れるわね」
食器棚から二人のマグカップを取り出すと、いつもの分量のコーヒーをスプーンですくった。
電子ケトルからゆらゆらと湯気が立ち上り、コォーッと低い音がしてきた。電子ケトルをじっと見つめる麦の横顔を私は何も考えずにただ見ていた。
麦がお湯を注いだ二つのマグカップに私が牛乳を加えた。
いつもの席に二人並んで座ってカフェオレを飲む。最初はそれほどおいしいとは思わなかったぬるいカフェオレにもすっかり慣れていた。
「いよいよ今日だね」
麦はこちらを見ずに目の前の壁を見たまま言った。
「緊張してる?」
「ううん」
寝癖のついた麦の髪を見ながら私は答えた。
「映画、楽しみにしてるんだ」
「本当?」
「大きな画面に友美ちゃんが映ったら、きっとテンション上がるんだろうなって」
麦はちょっと照れたようにに笑うと、カフェオレをチビチビと口に運んだ。
「演技はまるっきりダイコンよ」
「いいんだ。演技している友美ちゃんが見られれば、それだけでいいよ」
私は時計を見てから、残りのカフェオレを一気に飲み干した。麦のマグカップにはまだたっぷりとカフェオレが残っていた。
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