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久し振りに訪れて、急に彼女のことを思い出してしまったのかもしれない。だからキスシーンを撮ることに引け目を感じてしまってシナリオを変更したのではないか。そう考えれば、いつもと違う彼の態度にも納得できる。
私の推理はかなり飛躍しているとも思ったが、でも何となくそんな気がした。
撮影準備が完了したと二人から声がかかり、いよいよ最後の撮影が始まった。私の中でキョーコへの切り替えスイッチが入った。
雨に濡れることに躊躇はなかった。私はあらかじめ決められた位置に立った。そして彼からのアイコンタクトをきっかけに演技を始めた。
「わたしはヨーコじゃないわ!」
彼を突き飛ばし、遮断機の下りた踏切に入る。
踏切を渡りきると、振り返って彼を見る。そして彼に向かって、彼に聞こえるように大きな声で叫んだ。
「わたし、あの時、加藤君から」
猛スピードで走る電車に遮られて彼が見えなくなった。それでも私は言葉を続けた。
「……好きと言われて、素直に嬉しかった。あなたと付き合いたいなって、思った……でも、あなたの気持ちには応えられない……私は麦が好き。大好きなの。一緒に生きていくって決めたの。だから……ごめんなさい……」
電車が通り過ぎ、踏切の向こうに彼の姿を見つけた。私は早く彼のところへ行きたかった。
私は唇だけを動かし、声に出さずに心の中で呟いた。
「好きよ」
ゆっくりと上がる遮断機がもどかしかった。私は遮断機をくぐり、踏切に入った。私の目には彼しか見えなかった。
彼の胸に飛び込み、思いっきり抱きしめた。
顔を上げると、驚いたようにこちらを見る彼の顔がそこにあった。
私はちょっとだけ背伸びをして、自分の唇を彼の唇に押し付けた。
彼女の唇はとても柔らかく、とても冷たかった。
そうじゃない、僕が望んでいたことはこんなことじゃない。
心の中でもう一人の自分がそう言っていた。
彼女を抱き留めていた両腕の力が抜けるのと同時に彼女の唇が僕から離れた。
そっと目を伏せる彼女を見て、全てが終わったんだとその時に思い知った。
映画の撮影も、彼女への恋も。
このキスは彼女からの惜別のキスなんだ。
胸の奥から大きな塊のようなものがこみ上げてきた。そしてそれは僕の胸を突き破り、感情となって吐き出された。
僕はうめき声を上げながら膝から崩れ落ちた。
「う、う……あぁ……」
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