第1章

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 さっき聞いたばかりでどうすればいいのかもわからない私は弱々しい草食動物のような目で紀子に訴えた。 『いいから、とっととやるのよ!』  一見穏やかそうに見える紀子の瞳のその奥はどう猛な肉食動物のように鋭く、私に拒否権はないのだぞという強い意志が感じられた。  私は観念して取り敢えず赤羽の手を取り、彼の手のひらに自分の手のひらを重ねると、目を閉じ心の中で「どうか治りますように」と三度呟いた。  目を開け、恐る恐る紀子を見た。紀子は呆気にとられた顔で『もういいの?』と言いたげにこちらを見ていた。 「先生どうですか、何か変わったような気がしませんか?」  赤羽は首を捻って少し考えてから、 「んー、何だか少し身体が軽くなったような気がするな」 「そうでしょう、そうでしょう」  紀子は大きくうなずくと、私に向かって満足げに親指を突き上げ、ニヤリと笑った。 「なあに? どうしたの?」  真理亜ちゃんがキョトンとした顔で尋ねた。 「お姉ちゃんに『パパが治りますように』っておまじないしてもらったんだ」 「そうなんだぁ! 良かったね、パパ」  そう言って屈託なく笑う真理亜ちゃんを見て、軽い罪悪感に苛まれた。 「明日には退院して、早くお前達に数学の答案を返さないとな」  赤羽が元気になってくれるのはそれはそれで良いことなのだが、その後赤羽から皮肉の一つでも言われながら答案を返される悲惨なシーンを想像してちょっと複雑な心境になった。  そろそろおいとましようと腰を浮かせたところに、奥さんの声がした。 「ごめんなさい。自動販売機がなかなか見つからなくて」  奥さんは人数分のペットボトルを抱えていた。 「結局一階のロビーまで降りちゃったの」  そう言いながら奥さんはみんなにお茶のペットボトルを配った。真理亜ちゃんは嬉しそうに一〇〇%果汁のオレンジジュースを握りしめていた。 「そうだ、お前達これも持っていけ」  赤羽はベッドの横のテーブルに置いてあったどら焼きとせんべいを二人に渡した。私達は恐縮しながら病室を出て行った。  翌朝、またも尾久が教室に入ってきた。赤羽はもう一日くらい静養するつもりなのだろうか、と安易に考えていたが教室に入ってきた尾久の顔色が悪いのを見て、どうも様子が変だと直感した。 「赤羽先生は大丈夫なんですか?」  男子生徒の質問に尾久は即答せずに少し間を置いてから答えた。
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