春雷のあとさき

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****  数時間前の記憶にある、日本を出た時のしっとりとした重い空気とはあまりにも違う。  入国管理のブースに座った厳つい男が密を睨んで早口に何か言った。 「え、perdon?」  男はボールペンで机にコツコツと叩きながらわざとらしくため息をつき、ゆっくり発音した。 「カンコーカ?シゴトカ?」  一拍遅れてそれが日本語で『観光ですか?仕事ですか?』を意味していることに気付いた密が表情を崩した。観光だと答えると、男は歯を見せて笑い、パスポートを手渡してくれた。 「タノシイ!サヨナラ!」  誰に教えてもらったのか、その不完全な日本語が妙におかしくて思わず声を出して笑った。  笑いながら、気づいた。   ――浮かれてるんだ。やっと類に会えるから。 「Thank you」  もしかしてあれは、退屈な仕事の合間に日本人を驚かせるために彼が考えた冗談なのかもしれない。そんか勝手な想像をめぐらせながら数歩先の自動扉へと向かう。  背後では、密の後ろに並んでいた日本人が流ちょうな英語で会話していた。  パスポートを鞄にしまいながら自動ドアを通り抜ければ、そこはもう別の国だ。  着替えと、お土産の入ったキャリーバッグを転がしながら『NO RETURN』と書かれた看板を横目に出てゆく。 ――戻るな、か。  出口が開く度に期待のこもった視線が、到着客の間を順に移動してゆく。みんな誰かを待っている。背の高さも身体の幅もまちまちな人の群れに視線を滑らせて行くと、その中のたった一人が手を上げる仕草が、密の全注意力をさらった。 ――いた、類だ。 とん、っと心臓が大きく脈打った。  あまりに素っ気ないやり取りだったし、便名は聞かれたけど迎えに来るとははっきり書いてなかったからにいるのか不安だったのだ。  あっけない程あっさりと会えたことに、現実感が湧かなかった。  もたつくキャリーバッグを強引に引っぱって駆け寄ると、ゆっくりと歩いてきた類が両腕で密を抱き止めた。  期待と不安、実際に会った時にどんな気持ちになるのか、この瞬間まで密には想像もつかなかった。  現実は何てたやすく想像を超えるんだろう。
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