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『お前みたいなひ弱な身体で警察官になれるわけがないだろう』
階段を上りながら、遠い記憶の父親の声が聞こえた気がした。
その言葉を投げかけられた少年時代から、和久井は父親を遠ざけた。
東京都監察医務院・医長監察医を務め上げ、この病院の医学部法医学教室教授となった父親に対して特別な思いなどはなく、家族の記憶から抜けた大きな存在としてだけーそれは消したくても消せない事実・DNAが現在の自分を創っていて、その偶然の成り立ちで受け継がれた遺伝子によって生きているという不自由な現実ーの、記憶でしかないと和久井は思っていた。
生命の営みは誰にも決められるものではないし、そうであってはならない。
生きることに意味はない。
運命が変えられないのであれば、人生は自分で決めるのだと決意出来た思春期。
その覚悟に父親の言葉が、強く影響したとは思わないようにしていた。
『人生は自分が決めたのだ』
それが和久井の全てだった。
2Fまで来ると、整形外来・消化器センター・皮膚科・内視鏡科・外来手術室といった、黄色い文字の表示が真っ白な壁に書かれていて、和久井はそれを指でなぞった。
そして3Fへ向かう。
吸い寄せられるような感覚だった。
数分前に見た光景が、頭から離れずにいた。
鞄・傘・ベビーカー・保険証・ボールペン・ステンドグラス。
東京事象で消滅した人間の行く末を想像した。
死んだのか、生きているのか、どうにも解らなかった。
ー消えただけという事実ー
しかも身体だけではなく装飾品や衣服、またはコンタクトレンズに至るまで、身に着けていた素材ごといなくなってしまったのが理解出来なかった。
こつんと響く自分の足音が止まる。
黄色い文字を再び指でなぞる。
やさしくゆっくりと。
3F・産科センター
地域周産期母子医療センター
新生児室
NICU・GCU
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