31人が本棚に入れています
本棚に追加
和久井は父親との記憶を葬り棄てた。
完全に消去出来たと思い込んでいた。
それでも父親の車を目の前にして、心が記憶している想い出の比重の重さに立ち尽くしてしまった。
雨の日。
一度だけ乗せてもらった車の助手席で、和久井は一言も声を出せなかった。
高校の裏門手前で降ろされて、足早にその場を離れながらも振り返る。
父親の、パンプキンイエローの小型車はしばらく停車したままだった。
和久井はおもちゃみたいなこの車が嫌いで、それと不釣り合いな父親の性分も好きになれなかった。
ハンドル式の開閉窓と、まん丸のヘッドライト。
2ドアの時代遅れのガソリン車の思い出なんて、記憶の亡骸に過ぎない筈だー。
そう言い聞かせて車に近づく。
和久井は、ナンバープレートの番号を確認した。
父親がそこにいる気がした。
想い出が溢れ出る。
消去したはずの記録が・・・。
『言いたい事があるなら私の目を見てはっきり言ったらどうだ!』
反抗出来ずにいた頃に、浴びせられた言葉だった。
『ひ弱なのは身体だけだと思っていたが、なんて情け無い奴だ!』
死んでやると叫んだ日、殴られた後に言われた言葉だった。
和久井は、フロントガラスについた埃を手で拭い始めた。
棄てたはずの想い出が、ぼやけているのが悔しかった。
自らの手で、鮮明な記録を繋げ合せたくなっていた。
交通安全祈願の御守りと、色あせたオレンジ色のハンドル。
後部席に置かれた赤茶けたダレスバックと、ファイリングされたぶ厚い資料書。
父親らしい光景だった。
ダッシュボードに飾られた、控え目な家族写真がこちらを向いている。
父親と母親、そして幼い頃の和久井の微笑みは、小学校の入学式の記録。
その傍に固定された台座の上には、父親の大好きだったスコットランドウイスキーのミニボトルが飾られてあって、和久井は笑いながら呟いてしまった。
『何年モノだよ・・・』
思春期に、父親へ贈った最初で最後の誕生日プレゼント。
棄て去った埃まみれの記録の塊が、記憶となって想い出に変わる瞬間だった。
最初のコメントを投稿しよう!